02


「……すぐに助けてやれなくて、悪かった」
「シディアンが、謝ることなんて」
 そんなことは、ひとつもないのに。すべては、自分の危機感のなさや甘さが招いたことだ。そして、シディアンにはどうしようもない、過去が招いた悲劇だ。
「セレネ」
「ちがう」
「え?」
「わたし、名前なんて……」
 自分には、シディアンに呼んでもらえるような名前なんかないのだ。お前、と呼ばれて物のように扱われながらずっと生きてきた。
誰にも必要とされず、薄汚れた服を着て、虐げられてきた。そんな自分にはシディアンに名前を呼んでもらえる資格なんかないのだ。
 こらえきれずに、セレネの頬を涙が伝った。擦り傷にしみて痛みが広がっていく。その痛みは、皮膚の表面からじわじわと内に浸透して、心臓にまで達しそうだった。
 あとからあとからあふれる涙は、シディアンの指まで濡らしていた。
 シディアンは眉をひそめ、そっと目元を拭う。しかし何度拭っても、セレネの涙が途切れることはなく、シディアンの眉間のしわは徐々にすさまじいものへとなっていった。
「わたし、呼んでもらえる名前なんか、ない」
「……」
「ごめんなさい、いっぱい迷惑かけて、ごめんなさい」
「……許せないな」
 びくりと頬が引きつった。シディアンに嫌われるくらいなら、消えてしまえたほうがどれだけよかっただろう。あの塔の部屋で死んでいたほうがどれだけましだったろう。
 悲しくて泣いているセレネの目に、ふとシディアンの首筋が映った。手当てをしていない開いたままの傷が見える。アージュに斬りつけられたものだと気が付いて、血の気が引いていく。わたしのせいで、シディアンは怪我をしたんだ。
 シディアンの、もう片方の手も伸びてきて、そっと頬を包まれた。指先は、凍っているかのように冷たい。
「君をそんなふうに怖がらせる自分が許せない。そうやって、君が怖がりになる原因を作った奴らも、だ」
「……シディアン?」
 シディアンの手は、ゆっくりと耳を撫でている。それから彼は、深々とため息をついてこうべを垂れた。黒い髪の毛の間から、つむじが見えるくらいに。そして、少しだけ顔を上げてセレネと同じくらいの目線の高さでじっと見つめた。
「すまない」
「……シディアン」
「謝るべきは、俺のほうなんだ」
「……?」
「君が、人身売買の組織から逃げ出してきたことは、薄々気付いていた」
「え……」
「俺は、それを利用しようとしていたんだ。君の犠牲を対価に組織を摘発できるなら安いものだと思った」
 何を言っているのかがよく分からなかった。ただ、目の前のシディアンは何かを悔いるような表情で、セレネの耳を撫で続けている。くすぐったくて首をすくめると、シディアンはそれに気付いたのか耳から手を離し髪の毛を一房すくった。
「セレネ。それが君の名前だ」
「……」
「過去に何があろうとも、君は、俺の知っている、料理がへたくそで能天気で怖がりのセレネだ」
 シディアンがふと微笑んで、一瞬うつむいて顔を上げる。大きな手が、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜる。
「君は、君だ。俺にとってはそれ以上でも、以下でもないんだ」
 涙は止まらない。自分がシディアンのそばにいてもいいのだろうか、望んでも、願ってもいいのだろうか。
 めそめそと泣き続けるセレネに、シディアンは困ったように笑い、それからはっと何かに気が付いたように真面目な顔をした。
「セレネ」
 内緒話をするような、シディアンらしからぬ小さな声に、セレネは涙を必死で押し殺しながら息を止めてじっと耳をすませる。そうしていないと聞こえないくらい、シディアンは小さな声を出したのだ。
 シディアンは目線をうろうろとさせ少し迷うそぶりを見せて、まっすぐにセレネを見つめた。
「セレネ、君が好きだ」
 耳に、直接聴覚を震わせるように、流し込むように、囁くようにそう言われ、セレネは慌ててシディアンを見た。
「君のほんとうの気持ちが、聞きたい」
 シディアンは嘘なんか言わない。それにこんなに真面目な顔をしている。
ほんとうに、自分はシディアンのそばにいてもいいのだ。貴族のお嬢さんでなくとも、過去がどんなものでも、わたしはセレネだと言ってくれるのだ。
「わたし、わたし」
 嗚咽でじょうずに喋れない中、なんとか自分の気持ちを伝えようと必死になる。シディアンに伝えてもいいのなら、言いたかった言葉があるのだ。
 どうしてもひくついてしまう喉を、震えてしまう唇を、シディアンはじっと見て、根気よく待ってくれていた。
「シディアンと、ずっといっしょにいたい……」
 言った直後、セレネはうずくまっていた体を力強く引き寄せられていた。ふわりと感じるシディアンの体温に、やっぱり涙が止まらない。安心する温かさ、硬い肌、シディアンの匂い。
「……ありがとう」
 シディアンが、しっかりとセレネを抱き寄せて耳元で囁いた。その言葉の優しさが余計泣けてきて、セレネは声を詰まらせた。
シディアンの首にしがみつき、しっとりとその襟元を涙で濡らし続けるセレネの背中を、大きな手がいつまでもゆるゆると撫でていた。

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