03


 あの日、自分を迎えに来た黒服の男が今目の前に立っている。
 痛みも苦痛も、何もかもを思い出してしまった。
 毎日毎日、セレネが何をしてもしなくても暴力をふるってきた父親に、それを見ないふりをする母親。一度として呼ばれたことがない名前。自分をもののように扱う乱暴な手つき。
 そこから一瞬だけ救い出してくれたのがこの黒服の男だった。この男に抱えられて家の外に出た時、自分は自由になったとたしかに感じたのだ。そのあとに待ち受ける酷薄な運命も知らず。
「君は、きっと高値で売れるよ。なんせ、猫耳の半アルビノだ。希少価値は高い」
「や、いやだ……」
 もしもあのまま逃げ出さずに売られていれば、諦めもついたかもしれない。自分の運命を仕方ないと受け入れたかもしれない。自分の境遇を嘆くだけでよかったかもしれない。
 でも今は違うのだ。
 シディアンに助けられ、優しくされて、それから一緒に暮らして恋をした。シディアンのために料理を覚え、字も読めるようになったしお金の数え方まで教えてもらった。
 諦めるなんて、受け入れるなんて、嘆くなんて。そんなことはもうできない。
 けれど名前すらない自分にこれより先何があるというんだ。そんな絶望だってある。だからセレネはもうがむしゃらに抵抗するしかなかった。目の前の男にではなく、自分の運命に。
 男がちらりと懐中時計を見た。それから、もう一度セレネに手を伸ばし、逃げまどう手を掴んだ。死にもの狂いで抵抗をするが、ただでさえ男女の力の違いがあるところに衰弱もあいまって、まるで意味がない。
「諦めろ。お前はそういう運命なんだよ」
 アージュが冷たく吐き捨てる。ぎろりと睨むと、肩をすくめたアージュが少しだけ笑う。そして、次に眉をひそめて扉のほうを見た。
「音……」
 その呟きがセレネの耳に届いた直後、かんかんという、先ほどアージュが立てていたのと同じ音が聞こえてきた。そして、扉が軋みながら開く。
「……シディアン」
 そのアージュの声に、ばっと顔を上げると、そこにはわずかに息を乱したシディアンが仁王立ちしていた。
「……女性一人に大の男がよってたかって、恥ずかしいと思わないのか」
 聞いたこともない、地を這うようなシディアンの声に、セレネは思わず体を震わせた。
 一歩ずつ、シディアンが近づいてくる。ふと、セレネの前にアージュが立ちはだかった。
「相手が誰だか分かって言ってるのか」
「どけ。用があるのはお前じゃない」
「なんだと?」
 シディアンがゆっくりと腰に携えていた細い剣を抜いた。アージュがそれを見て鼻で笑う。
「俺に勝てると思ってるのか」
「……」
 黒服の男が、ちらりとそれを見て、ぼうっとしているセレネの腕を掴んだ。思い出して暴れるセレネを押さえ込む男の耳に、シディアンの怒号が響き渡る。
「その子に汚い手で触れるな!」
 シディアンが、一気にアージュとの間合いを詰めて振りかぶる。と、金属がぶつかり合う派手な音が部屋に響く。
 セレネはその音に身を竦ませた。はっとして見ると、アージュの手には小ぶりのナイフが握られていた。シディアンの渾身の一撃を、その小さなナイフで受け止めたのだ。
「お前は、俺に勝てない」
「黙れ」
 細身の剣がしなり、まっすぐにアージュの心臓めがけて突き出される。それをナイフの刃の部分で受け止めて、アージュはにやりと笑った。
「殺す気か?」
 シディアンが無言でそのまま剣を振り下ろす。それも簡単に弾き返された。
 その激しい剣の応酬を、セレネがはらはらしながら見守っていると、不意に腕を引かれた。男がセレネを引っ張っている。この機に乗じて逃げるつもりらしかった。
「やだ!」
 大声を上げて暴れると、一瞬シディアンの腕の動きが止まってセレネたちのほうに視線が向く。その隙間を、アージュは逃さなかった。細身のナイフが躍り、はっと我に返ったシディアンの首筋を切り裂いた。赤い鮮血が飛び散る。
「シディアン!」
 セレネの悲痛な叫びが空間を裂いて、その直後シディアンの剣が叩き落とされ、アージュのナイフがシディアンの首の動脈に迫る。そのナイフを握る手首を、シディアンはなんとか掴んだ。ぐぐ、と押し進んでくるアージュの手の力を押さえきれず、シディアンの首筋にナイフの刃が擦れた。
「言ったろ。俺に勝てるはずがないって」
「……」
 シディアンが唇を噛んで、ナイフが首筋に食い込むのも構わずアージュの横腹に拳を叩き入れる。アージュのナイフが首に深く刺さり、また新しい血が垂れる。
まさかシディアンが動くと思っていなかったのか、アージュの動きに隙が生まれた。今度はシディアンがその隙を逃さず、裏拳でアージュのこめかみを打った。アージュがよろける。そして、よろけたアージュの足をすくいその巨体をいとも簡単に転ばせて石の床に倒した。頭を強く打ちつけたようで、苦痛にアージュの顔がゆがむ。そのままシディアンはナイフを奪い、アージュの巨体にのしかかるようにしてその喉仏に刃先を食い込ませた。

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