プロローグ


 雪が、ほとりほとりと空の裂け目から落ちてきていた。
 窓の内側から、降り続く雪をじっと見つめる。時間的にはまだ昼間のはずだが、降り積もる雪が視界を暗くしている。
 あったかそうだ、と思う。そんなはずはないことを、触れる温度をよく知っているのに、なぜだかそんなふうに思う。少なくとも外の世界は、ここよりきっとずっとあたたかい、とそう感じる。部屋の中は、暖炉の火がついていてあたたかいのに、なぜそういう風に思ってしまうのかはよく、分からないけれど。
 体中のどこもかしこもひどい痛みを訴えていた。それから、ひどい空腹。
 部屋のソファに座っている女は、疲れたような顔をしている。窓際の冷たい床に座り込んでいる自分のことなど、見えていないかのようだ。でも実際は見えていて、見ないふりをしているだけだということはよく知っている。
 部屋の扉が開いて、外の凍えるような空気とともに、男が入ってきた。ぼんやりとその吹雪を背にした姿を見ていると、ぎろりと睨まれる。
「なんだその目は」
 黙って首を横に振る。逆らったら、と考えるのも怖い。けれど男はその反応を気に入らなかったようで、さらに言い募る。
「反抗的だな」
 男が、窓際に近づいてきた。蹴られる、そう思って身を縮ませたが、痛みがそれで小さくなるわけでもなんでもないことは、よく知っていた。
「むかつくんだよ、その目が!」
 外の世界はきっと、あたたかくてふんわりしていて、それから優しいと、無条件に信じるしかなかった。そうしないと耐えきれない。
 しんしんと積もる雪は静かで、男の暴力の音も掻き消していく。腹と背中に蹴りを入れて、男は無抵抗な体を足で踏み潰した。蹴られた場所が潰された瞬間に鋭く痛み、それからずきずきと疼くようなものに変わる。
 たぶん、どんな反応をしても、機嫌のいい時には何もされないし、機嫌が悪ければ蹴られる。そんなことは分かっていた。でも、今男は機嫌がよさそうに見えたので、少しだけ疑問に思う。
「っと、そうだ、お前」
 男の手が伸びてきて、髪の毛を掴んで引きずられた。悲鳴を上げたけれど、それを聞いて助けてくれるはずの女は、ちらりとこちらを見ただけで何の関心も示さない。
 もう、期待するのも待つのも、何もかもが疲れた。
 扉は開きっぱなしだった。そこに誰か男が立っている。黒いシルクハットに黒いコート、足元は真っ黒いきれいに磨かれて輝くブーツ。全身黒で、背後の真っ白な雪との対比がまぶしかった。
「その子が?」
「ああ、そうだ」
 その子、が自分を指していることは分かるが、もやのかかったような思考と、殴られた跡のせいで半分しか開かない目では、二人の男のやり取りを把握しきれなかった。
「すぐに連れて行く」
「そうかい」
 連れて行く。その言葉に、もしかしてこの小さな部屋の世界から、外の世界に連れ出してくれるのか、とぼんやり思う。その、扉脇に立っている黒服の男は身なりもよく、いい匂いがした。
 黒服の男が、ブーツのかかとを鳴らしてこちらへ近づいてきた。そして、大きな手で頭を撫でる。
「いい子だね」
 いい子だね。その言葉の意味がよく分からなくて、だけど声が、手があたたかくて涙が出そうになる。
「心配しなくていいよ、大丈夫だから」
 黒服の男は優しい声音でそう言って、立ち上がった。そして、部屋を出ていこうとする。
 待って、待って。私も外に連れて行って。もうこの世界はいやなんだ。こんなところはいやなんだ。
 叫ぼうとするけど、声は喉が掠れて出なかった。黒服の男は扉の外にいるらしい誰かに話しかけて、また室内に戻ってきた。そして、男に向かって何か言う。男もそれに応える。もうろうとしてきた意識で、必死でそのやり取りを拾おうとするのだが、無理だった。
 やがて部屋は静かになった。開かないまぶたを必死で上げて、室内の状況を掴もうとする。黒服の男は、まだそこにいた。よかった。
 女とも、何か話しているようだ。相変わらず何にも興味がなさそうな顔をしているけれど、少しだけ嬉しそうに見えた。
 そして、黒服の男が近づいてきて、抱え上げられた。ぼんやりとその目を見ると、にっこりと微笑まれた。少しほろ苦い特徴的な香りがして、けれどそれは決して嫌な感じの匂いではなく、この人は、優しい世界の人だと思う。
 それから、抱きかかえられたまま、暗い記憶しかない部屋をあとにする。何の感情も顔に乗せていない男が、扉が閉まる直前に言い放った。
「あと一発くらい蹴っておけばよかったな」
 おそろしい言葉に身震いする体を、そっと黒服の男の、これまた黒い手袋が撫でた。

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