10


 ベッドはひとつしかない。セレネとシディアンは、一緒に眠っている。
最初シディアンはそれを渋って自分は床で寝ると言い張って、実際そうしていたけれど、家の主を冷たい床に寝かせて自分はぬくぬくと暖かいベッドで眠ることをどうしてもセレネがよしとしなかった結果だ。
 寒い夜などは特に、セレネはシディアンにくっつきたかったのだが、シディアンはセレネに背を向けて早々に眠ってしまう。その広くたくましい背中にぺったりと貼りつくが、朝になると剥がされている。
 シディアンは、セレネにこう言った。
「セレネ。君がどういう価値観を持っているかは知らないが、同じベッドに俺たちのような年齢の男女が一緒に眠るのは、あまりいいことじゃない。君がどうしてもというから一緒に寝ているが、あんまりくっついてくるようなら、俺は断固として床で寝る」
 この真冬にシディアンを冷たい床で眠らせることを思うと、セレネはそれはあんまりだと思ったので、素直にそれを聞き入れた。
 安心するのだ。シディアンの大きな背中にくっつくと。
 見えない力で守られているような、そんなひどい安堵感がセレネを不安からすっぽりと覆い隠してくれるのだ。
「ねえシディアン」
「なんだ、寝なさい」
 夜になると、どうしてもセレネは自分がひとりぼっちになってしまったかのような不安に襲われる。記憶がないとか、行く場所がないとか、そういった不安だ。
 それを解消してくれるのが、シディアンの体温とその匂いだ。
「ちょっとだけ、くっついてもいい?」
「駄目だ。それなら俺は床で寝る」
「……分かった」
 シディアンには見えないだろうと思うが、セレネはそれでも精一杯の意思表示として唇を思い切り尖らせた。シディアンが、見えていないはずなのに気まずそうに咳払いをする。
 自分とは違う硬い肌のごつごつした感触や、どこか柔らかい石鹸とシディアンの肌の甘い匂いの混じり合ったそれが、とても落ち着く。でもそれをシディアンに言うのはなんだか恥ずかしかったし、伝えたところで彼が、「そうかでは」と背中に貼りつくのを許してくれるとは到底思えなかった。シディアンは、そういうところでわりとかたくなだ。頑固、というのだとヴェルデに教わった。
「……一緒に? このベッドで?」
「はい。あったかいし落ち着くから」
 今日も、というか最近何日と間を置かず遊びに来ているヴェルデが、驚いたように目を見開いてベッドを見た。セレネの口から、シディアンと一緒のベッドで寝ているということを聞いたらこの表情だ。やはり、シディアンが言うとおり、あまり普通のことではないのだな、とぼんやり思う。
 セレネは、記憶と一緒にそのあたりの常識のようなものを欠落させてしまっているような気は、自分でもしている。物を知らなさすぎるし、シディアンの話も聞き返さないと分からないところがたまにある。
「仲がよいのですね」
「……シディアンは、嫌がってます」
「だろうと思いました」
 即答したヴェルデの表情は、なんだか面白いことを見つけた子供のようなそれだった。なぜ即答されたのかセレネにはよく分からないが、少なくともヴェルデはシディアンをよく知っているだろうし、そうなんだろうなと思うことにする。
 最近セレネは、シディアンに教わってもてなしを覚えた。なのでヴェルデがやってきたときは紅茶をいれてもてなすのが通例になりつつあった。今日も、例にたがわずセレネとヴェルデは紅茶を飲みながら、ヴェルデが持ってきた甘い砂糖菓子を食べていた。
 砂糖菓子は可愛らしい花のかたちをしていて、食べるのがなんだかもったいない、とセレネが言うと、ヴェルデは頷いたあと、だけど食べると幸せになれるかもしれませんよ、と言った。
「シディアンは……」
「?」
 言いかけて、ヴェルデが考えるように言葉を切った。セレネが首をかしげて先を促すと、視線を上のほうにめぐらせたまま彼は言う。
「真面目ですからね」
「真面目?」
「ええ、とても。潔癖と言うかなんというか……。あまり女性とのかかわりを持ったことがないのでは?」
 紅茶をすすってこともなげに言ったヴェルデに、セレネは少しだけ胸が騒いだ。
「あの」
「なんでしょう」
「シディアンが女の人と一緒にいるの、見たことありますか?」
 ぽかんとしたヴェルデの顔が、次の瞬間笑みの形に崩れた。
「あると言ったらどうするんです?」
「えっ、どうする、とかじゃないけど……」
 セレネも、どうしてそわそわしてしまうのかは自分でも分からない。別に、あるからどうとかないからどうとかそういうわけでもない。ただ、シディアンが女性と仲良く一緒にいるところを想像すると、どうしてか心臓の鼓動が速まった。
 もじもじしているセレネを目を細めて見たヴェルデは、にたりと、あまり彼に似つかわしくない感じで口の端を持ち上げた。
「聞きたいですか?」
「ちょ、ちょっとだけ」
「じゃあ、シディアンには内緒ですよ」
 人差し指を唇に当て、ヴェルデは、内緒話をするように声を潜めた。セレネも、思わずヴェルデのほうに顔を近づけて目を真ん丸にして息を止める。
「一度だけ、ありますよ」
「……」
「たしか、どこかの貴族のお嬢さんだったかと思いますが」
「……」
「ベッドをともにしたかどうかまでは知りません」
 ヴェルデの放った言葉の含みまでには気づかないが、セレネはその言葉に少しだけ安心した。ただ、貴族のお嬢さん、という単語が引っかかった。
 自分は、貴族でもなんでもない。むしろ、金持ちだったのか貧乏だったのか以前に、素性がまるで分からない。
 シディアンは、自分を鬱陶しく思うのだろうか。だから、一緒に寝ることを嫌がるのだろうか。もしセレネの素性がはっきりしていれば、シディアンはあんな風にかたくなにはならないのだろうか。
 なんとなくそう思いながら、見たこともない貴族のお嬢さんに思いを馳せる。きっと美人で、自分とは比べ物にならない教養があって、お金持ちで。考え出すと、自分より悪いところがまるで見当たらないその見たこともない貴族のお嬢さんが、たまらなくうらやましかった。
 シディアンの隣にいても、おかしくない。そんな自分になりたいと思ってしまう。それがどういうことか、よく分からないけれど。
「いい仲だったかどうかまでは僕は知りませんよ」
「いい仲って?」
「恋人同士ということです」
「……」
 恋人同士、という言葉が、なぜだか果てしなく輝いて見えたのは、どうしてか。セレネにはまるで見当もつかなかったが、純粋に、シディアンの隣にいる女性をうらやましいと思う。
 自分も、シディアンの隣にいても見劣りしないようになりたい。シディアンと、たとえば市場に買い物に行ったり、そういうことがしてみたい。
 到底、無理だろうけど。と、セレネは早々に諦めることにした。

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