あなたの元へ還りたい
06
左手が熱い。
年に一度、十月十六日、俺が必ず行く場所がある。電車でおよそ三十分、遠くない故郷。それでも意外と世間は広いから、俺は今まであの人に見つかることなくうまく生きてきていた。
でもいつまでも逃げているわけにはいかなくて、見つかってしまった。また住まいを変えたけど、きっと調べればすぐばれるのだろう。
墓地へ続く階段をゆっくり上りながら、線香のかおりに酔う。
十三年前のこの日、俺はこの世でひとりぼっちになった。母さんの最期の言葉は今も、俺を苦しめる。
今でも忘れない。偽りでもなんでも、小さな頃に髪を撫でてくれた母さんの日に日に細くなる指、彼女がうわごとのように繰り返した男の名前、初めて自分の手を黒く汚して、墨汁を頭からかぶった日のこと。
待てども待てども、母さんが信じたあの人は、来なかった。そしてゆっくり死んでいった。
「……」
ふうとため息をつく。毎年この階段を上っているけれど、いつも墓地を遠く感じる。
ようやく上りきる頃には、少し息が乱れていた。
もしも俺の髪の毛が本当に黒なら、瞳の色が黒なら、ひょっとして母さんはあんなふうに死なずに済んだかもしれないし、俺は愛されて育ったかもしれない。愛が何かも分からないくせに、そう感じる。
愛って? 結局母さんだって俺を愛してなんかいなかったじゃないか。
「許さないから」
そう言って死んでいったじゃないか。
何を期待するんだ、愛されずに育ったくせに当たり前にこの世に存在して、誰かを愛したつもりになって、きっと比奈ちゃんに抱くこの思いだって偽りなんだ。彼女の愛だって本当かも分からない。
ざあっと風が吹いて、シャツの裾を揺らした。たくさんの落ち葉が風に踊らされ視界を狭める。
やがて見えてきた桐生家の墓には、先客がいた。茶色の髪の毛を風に遊ばせて、その人はしゃがみ込んで両手を合わせていた。この日に桐生家の墓を訪れる人間などいるはずがないのに。
自分の砂利を踏む音が、やけに大きく響いた気がした。しゃがみ込んでいた男が立ち上がって、こちらをゆっくりと振り向く。
「……あ」
「……小百合?」
頭が真っ白になった。