OMAKE
何もない

 手のひらを見る。白くて、細くて、弱そうで、ところどころにしわがある。ああ、生命線、短いや。
 さっきまで比奈とつないでいたはずなのに、そのぬくもりが全然なくて、すごく不安になる。怖いんだ、あの子がどこか行ってしまうのが。
 ぎゅっと手を握りしめて、開いて、を繰り返す。何もない。何もないのに、欲しがる。
 離れていくのは俺なのに、あの子が遠のいていく気がする。自分勝手で、どうしようもない。
 あの子を置いて行って泣かせるのは自分なのに、たぶん俺が一番泣く。情けないくらい、きっと泣く。
 でももう、決めたことだから。そう自分に言い聞かせて、少しずつ少しずつ、覚悟を溜める。
 俺はあの子のことがほんとうに大好きで、幸せって言ってほしくて、それからずっと笑っていてほしくて。幸せなんて俺知らないけど、泣かせるけど。でもそう思っているのは、ほんとうで。

「先輩」

 先輩って、あの子に呼ばれるのが大好きで、時々尚人って呼ばれるのはもっと好きで、自分の名前がすごく特別な何かになったような気がして。鈴を転がすみたいな可憐な声が、ほんとうにほんとうに愛おしくてたまんなくて。
 あの子といたら、全部忘れられる。何もかも。
 でも、あの子がひとたびこうして離れてしまうと、すぐに思い出す。強く思い出す。
 俺は許されなくて、それで冷たくて暗い道をずっと歩いて行かなくちゃいけない存在で、吐きたくなるような現実を突きつけられる。
 あの子が全部許してくれるような気がして、俺の真っ暗な何かを一生懸命照らしてくれてる気がして。
 安心してしまうんだ。依存してしまうんだ。だから、一回解放してあげなくちゃいけなくて。そんなの痛いくらい分かってるのに、まだまだ踏ん切りがつかない。

「ねえ、先輩」

 拗ねたように呼ばれるのも、うれしそうに呼ばれるのも、照れてるのも全部好きだ。
 あの声が聞けなくなることを考えるのが、一番怖い。でも、俺は今その道を選ぼうとしている。自分のために。
 信じたいのに信じられなくて、どうしようもなく子供で、馬鹿みたいに単純で複雑だ。
 海の向こうは、遠いよね。きっと声も届かないし、姿も見えない。
 だから行くんだって、決めたんだけどな。
 手を握って開いて、握って開いて、繰り返す。
 何もない。


20131007