OMAKE
彼が笑う理由
彼の心を守る棘が、全部抜けたみたいな。そんな印象をもたらした。
「ああ、柳さん、お疲れ様です」
「Prosit,bella.今日も美しいね」
「またそんなこと言って。奥様に怒られますよ」
「フフ」
ちらり、と俺の左手薬指にある指輪を見て、雑誌のインタビュアーである彼女はヒサトのほうに目を戻す。この撮影が終われば、インタビューがある。彼女は、それを待っているのだ。
しばらく二人で並び、無言で撮影を見る。ヒサトの表情は、七変化。眉を寄せて色香を漂わせるのも、ニッと歯を出して無邪気に笑うのも、お手の物だ。
「いったん休憩でーす」
その言葉を合図に、すとん、と彼の細い肩が落ちた。スタッフと談笑を始めた彼を見て、インタビュアーの彼女はぼそりと呟く。
「……なんだか、表情が柔らかくなりましたね」
「……ほんとうにそう思うかい?」
「え? ええ」
一瞬、俺の言葉に怪訝そうな顔をしたが、彼女が意見を覆すことはない。だって、と微笑んで言う。
「昔は、すごく警戒心の強い野良猫みたいだったのに」
「今は?」
「安心した家猫のよう」
フフフ、と俺が含み笑いをすると、彼女は若干ばつの悪そうな顔をした。
「もちろん、飼っているのは私ではないのですが」
「君は、今見えている、カメラの前にいない彼がほんものの彼だと?」
「もちろん。つくる必要がないでしょう」
「……彼には、つくる必要があるんだ」
「え?」
ふう、とため息をついて、俺は髪の毛に手を入れてガシガシと掻く。そろそろ切らないと、伸びてきたな。
俺の呟きが聞こえなかったのか、彼女は、え、と言ってから続きを話し出す。
「信頼のもとにこの撮影がおこなわれているっていうのが、よく分かります」
「信頼、か……」
おそらく彼女に他意はない。だから言うのは避けた。長い付き合いだから、多少ヒサトのことが分かるというのも、理解できる。ただ、……。
ヒサトにとって、信頼という目に見えないものは、ないのと一緒だ。結局、どれだけ時が経っても、彼が「目に見えないもの」を信じることはできない。だから仕事仲間のことも、俺のことも、彼はきっと、信頼はしていない。
彼が信じているのは、ヒナというその存在そのものだけなのだ、きっと。
ヒナからの愛も信頼も、きっと信じてはいない。理解したいと願っているのだが、彼に植えつけられたトラウマの根は深い。
彼が唯一信じるのは、ヒナがそこにいるという事実だけ。仕事をして、家に帰ってヒナがいる。彼は、そのことに何よりも安心する。
周りの人間も、契約書も、歴史も。彼は何も信じていない。見えないものは、何ひとつ信じられないと言う彼のほんとうの姿を、おそらく俺だって知らないのだろう。
「撮影終わりでーす」
「おつかれさまでした」
「おつかれさまでーす」
ふと、撮影が終わったことに気づき、ヒサトが俺たちのほうへ近寄ってきた。それと同時に、俺が預かっていたヒサトの携帯が鳴った。ポケットから取り出すと、ヒナからの電話だった。
「ヒサト、電話だ」
「あ、うん」
携帯を耳に当てた瞬間。彼の心を守る棘が、全部抜けたみたいな。そんな印象をもたらした。
「もしもし? 明日の朝のパンと、え、なんか野菜? うん、分かった。つわり、大丈夫?」
通話を切って、俺に携帯を手渡す。そのときにはもう、彼の心はロックされ、たくさんの棘が張り巡らされていることを肌で感じる。
「夕飯の買い物か?」
「うん。帰りスーパー寄ってくれる」
「OK」
インタビュアーの彼女は、ぽかんとした顔で呟いた。
「尻に敷かれているんですね、意外」
「え、アハハ」
ヒサトが曖昧に笑う。それだけで、場は和やかになるが、たぶん、俺も彼女も、彼が笑った意味は、知らない。
20130313