OMAKE
あたたかいからだ

「……しぃー。ね」
「にゃー」

 頭部があたたかい、と尚人はぼんやりと感じた。
 ひそひそと囁くような声がして、猫の鳴き声が応えるように落ちる。
 頭全体がやわらかい何かに覆われているのを感じ、尚人は一度、まばたきをして薄く目を開けた。

(……いいにおい)

 無意識に頭を、ピンクのセーターに押し付けると、後頭部に回されていた細い腕がきゅっと力を込めた。
 優しい拘束感に、尚人はふと息をついてますます額を押し付けるように擦り寄った。
 洗剤の香りと、おそらく自分の頭部を抱え込んで膝に乗せているのだろう少女の肌の匂い、それらは尚人を妙に安心させた。

「……起きちゃった? ……違ったぁ。ほら、タマちゃんが静かにしないからぁ、先輩気になっちゃうでしょ」
「みー」
「起こしちゃダメだよ」
「みゃ」

 まだ、夢と現実を行き来しているようなたゆたう意識が、その声を子守唄と認識する。
 ──梅雨晴れ、雨粒に太陽の光が反射していて、庭のアジサイにへばりつくカタツムリと、縁側でそれをじっと見つめる自分。細い手のひらで空を示した母親。あの頃にはもう、彼女はまともに声を出すことなんて、ましてや歌うことなど出来なかった。

「…………比奈がねぇ、……」

 小さな呟きが空気にしっとりと馴染んで、そこで途切れた。
 尚人が続きを待っていると、比奈の腕が片方頭から離れ、髪の毛をくしゃりと撫でつけた。
 ふぅ、とため息をこぼし、比奈が尚人の頭を抱えるように体を折った。次に吐き出された言葉は、内容のわりに弱弱しい響きだった。

「……比奈がねぇ、先輩より大きかったらいいなって、思うんだよ」
「にゃあ」
「2メートルくらい、あったらよかったなぁって思うんだよ」

 (2メートルの比奈、を愛せるかな、……)

 徐々に覚醒しだした脳で、2メートルの巨体を持つ少女を想像しようとした尚人は、そのあまりのナンセンスさにひっそりと口の端を上げた。
 タマに話しかける比奈は、尚人がそんなことを考えているとは思いもよらぬのだろう、彼を起こさぬように小さな声で続けた。

「先輩、きっと知らないから」
「……?」
「ね、タマちゃん。拓人さんにお願いしたらいいのかなぁ」
「にゃ」
「Ehi,bella. 俺がなんだって?」
「しぃーっ」
「OH,I SEE. ……なんちゃって」

 静かに、と言う前に突然現れたことに対しての疑問はないのか、と尚人は嘆息する。
 尚人の知る限り比奈は、泥棒に入ってきた奴に茶を淹れるような人間である、──あくまで、比奈が男嫌いでなかったら、もしくは泥棒が女だったらの場合に限るもてなしだが。
 何の遠慮もなく部屋に押し入った強盗……拓人は、比奈の膝に頭を預け眠りこけている尚人を見て、唇の端を持ち上げて丁寧に笑った。

「俺に、何をお願いするんだ?」
「……」
「ン?」
「……先輩ね、泣いてるのに気づかないの。ぎゅうしてあげたいの」
「……ん?」

 困惑して、拓人は眉を下げる。

「ヒナ、もう一度分かりやすい表現で言ってくれ」
「だからね、比奈は無理だから、拓人さんに先輩をぎゅーっとしてあげてほしいの」
「……どうしてヒナには無理なんだ?」
「本当は、比奈が、いつもやってもらうみたいにしてあげたいんだけど……」
「出来ているじゃないか」
「だ、め、なんだよ……」
「ヒナ?」
「先輩は知らないかもしれないけど、……自分よりおっきい大好きな人にぎゅうしてもらうっていうのは、すごく幸せなことで、比奈は、先輩にぎゅうしてもらったら嬉しいから、……だから、」
「ヒーナ」

 喋るうちに興奮したのか、拘束力が強くなった腕の中で、尚人は小さく身じろぎした。
 心地の良い空気からはすっかり目覚め、彼女の腹に顔を埋められているからこそ分からないが、目はしっかり開いていた。
 ただそれは、拓人が来たからとか二人の話し声が大きくて、という不愉快な理由ではない。
 ──どうして、この子にはすべて分かってしまうのだろう。

「ヒナ、知ってるか? Giapponeの諺に、小は大を兼ねる、というものがある」
「……」

 (可哀想な脳みそ……)

 正確には、大は小を、である。
 比奈は尚人よりも頭脳明晰で、そのしばしの沈黙に尚人は、彼女もきっと呆れている、と考えた。

「……そっか!」
「そうそう!」

 呆れて声も出ない尚人を尻目に、ふたりはにっこりと笑い合った。

「俺が抱きしめてあげてもいいけれど、それは、ヒサトのためにはならない」

 ぽつりと、拓人が呟く。少しだけ残念そうな色を添えた、いとおしそうな微笑みであった。
 比奈が黙って続きを促せば、彼は足元に擦り寄ってきたタマを抱き上げて床に腰を下ろした。

「ヒナにはまだ分からないかもしれないけど、ヒサトの心のドアの鍵は、ヒナしか持っていないんだ」
「心の鍵?」
「今に分かるよ。コーヒーでも飲むかい?」
「ううん、いらない。比奈は先輩が起きるまでずーっとぎゅうしてあげるの」
「そうか」

 拓人が出ていった部屋はしんとしていて、時折タマの鳴き声がするくらいだ。
 ふわふわとした感触と柔らかい匂いに、俺は再び瞼が重くなるのを感じていた。


20071221