同情するなら金をくれ
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 蚊の鳴くようなひそひそした声で、けれどたしかにそう言われ、何か悪い予感を抱えつつも、あたしだって意味がよく分からないままに、同じく意味のよく分かっていない比奈を促してそのドアを開けた。比奈は、猫を抱きかかえて不思議そうにあたしと先輩を見比べている。
 先輩は、あたしたちがドアの中に入ったのを確認すると、静かに、と人差し指を口に当てて、玄関に向き直った。

「先輩、どしたの?」
「さあ……でも、きっとあたしたちが見つかったら困る相手なんだよ……」

 ひそひそと問われたことにひそひそと返すと、比奈は目を丸くしたあと、爛々と輝かせた。

「彼女かなぁ」
「……違うと思うけど」

 彼女、ではないだろうけど、どうせ性的なお友達とかそのようなものだろう。そういえば中学時代に彼について、有閑の未亡人に囲われているとか、某お局教師の愛人だとか、家に帰れば常に女が裸で待っているとか、中学生にはおよそ相応しくない様々な噂が広まっていたが真相は謎のままだ。
 きっと訪問者は、彼が気まぐれに手を出して彼女面でもしているんだ、あたしたち「女」が部屋にいるのをを見て逆上するような。

「……やめろっ!」
「!」

 比奈の肩がびくっと浮いて、猫がそれに驚いたのか彼女の腕の中から飛び降りた。
 搾り出すような、悲痛な叫び声は、間違いなく先輩の口から放たれたであろうもので、あたしは、ひょっとして彼が怒鳴るのを聞くのは初めてじゃないだろうか、と呆然と考えた。

「もう帰ってくれよ! 俺のことなんか……!」
「ふざけるな!」

 男の声だ。それも、おそらく若くなんかない、だいぶ年を重ねた、深い渋みのある声。訪問者は女ではなかったのだ。
 なにやら穏やかでない会話の運びに、思わず眉を寄せると、目の端にドアを開けようとしている比奈が目に入る。

「比奈、」
「帰れよ! 俺なんかほっといてくれよ!」
「……!」

 ドアノブに手をかけたところで比奈の手が止まり、あたしを振り返る。情けなく、尻切れトンボになっている眉が下がっていて、うるうるとした目が、どうしようどうしようと雄弁に語る。
 目の前には困り顔の比奈、ドアの向こうからは、ヴォリュームが落ちて聞き取りにくくはなったものの依然言い争うような声。

「……」

 逡巡ののち、あたしの良心は、好奇心と心配に負けた。ごめん先輩。
 ドアをそっと開けて、比奈と一緒に頭だけ出してそっと様子を窺う。
 上質なものと一目で分かる着物を着た壮年の男が、先輩の細い身体を押し倒し、皺の寄った浅黒い両手は彼の白い首にかかっていた。
 あたしが息を飲んだ瞬間、比奈が弾かれたように洗面所から飛び出した。

「やめてよっ!」
「比奈!」