寝耳には涙を流し込め
08

 ひとりきりの家は馬鹿みたいに広い。
 毎日、もしかしたらリノが帰ってきているかもしれないと思って、仕事が終わればすぐ家に帰った。付き合いの飲みにも行かないし、他の女性と寝ることもやめた。
 馬鹿馬鹿しくなったのだ。
 俺がこうしてちゃらちゃらしている裏で、彼女は泣いて苦しんでいた。その認識が甘かった。下手にリノが浮気のやり返しとかするものだから、怒ってはいるが傷ついてはいないだろうと思っていた。
 その上、こどもまでできて、彼女を不安にさせた。そんな自分が殺してやりたいほど憎い。彼女の愛を過信して浮ついていた自分が情けない。
 彼女にだって限界があるのだ。それに俺は気づくことができなかった。

「……リノ」

 呼んでも、あのハスキーな声で「なあに」と言ってくれる人はいない。
 何もかもが遅すぎた。もっと優しくしてやればよかった。もっと甘やかしてやればよかった。浮気なんてしなけりゃよかった。
 リノの傷は深い、ひとりこの大きな部屋にぽつんと立っている俺より、ずっときっと。
 どうしてリノが傷つかないなんて思ったんだろう。
 ひとりきりの寝室に耐え切れなくて、俺はソファの上で寝ることにしている。翌日いろんなところが痛いが、寝室では満足な睡眠は得られないだろう。
 シャワーを浴びて髪も濡れたままソファに横たわる。寝るには少し早いが、明日は朝から仕事があるので、早めに寝ておいて損はない。
 そう思って目を閉じた瞬間、カチャン、とドアの鍵が外れる音がした。俺は慌てて飛び起きた。
 部屋にスーツケースとともに入ってきたリノは、泣きはらした目をしていた。ソファから立ち上がり、俺はリノのそばに寄った。おなかも少し目立ってきて、でも痩せていて、俺はもう気が気ではなかった。

「……浮気はするしナンパもするし、いいかげんだし、セックスはひどいし、ちゃらんぽらんだし人の言うこと全然聞いてないし」
「リノ?」
「でも、あたしは拓人さんが好きなの。どんなひどいことされても許せるくらい好きなの。拓人さんの赤ちゃん産みたいの。それで一緒に育てたいの……」
「リノ……」

 泣きながら告白した彼女を俺は無意識に抱きしめていた。

「泣かなくていい。一緒にこどもを育てよう。結婚しよう」
「……っはい……」

 指輪も何もない、質素なプロポーズ。それでも、俺は満足だった。
 自分が結婚することになるなんて、考えてもいなかった。ひとりの人間の父親になることも。

「疲れただろう。風呂に入るか?」
「うん」

 リノがシャワーを浴びているうちに、俺は寝室でベッドメイキングをする。ふたりで、いや三人で、これからここで眠るのだ。

「……拓人さん」

 背後から声がかかる。部屋着を着たリノが、髪の毛を濡らしてぽつんと不安げに立っていた。俺はリノに近づいて、また抱きしめた。

「髪を乾かしてから寝ないと風邪を引く」
「……あなたもよ」
「乾かしたら、三人で寝よう」
「……しないわよ」
「妊娠初期って危ないんだろう」
「そうみたい」

 いつものそっけないドライなリノに戻ったことが、なんだか嬉しい。でも、さっきの泣いている姿も、不謹慎だが可愛かったな。

「なあ、次の診察はいつだ?」
「来週の月曜よ」
「その日は仕事を抜けるから、俺も一緒に行ってもいいか?」
「……いいけど」
「けど?」
「ん、なんでもない」

 リノが布団に向かってダイブする。いいのか、そんな勢いよく突っ込んでいって、赤ん坊は平気なのか?
 上手い具合に腹は守ったらしいリノが、俺を手招きする。

「もう寝よう。明日は朝早いんでしょう?」
「どうして分かったんだ?」
「だって、あなた風呂に入ったらあとは寝るしかないんだから。石鹸のにおいがしたし」
「そうか。リノには何でもお見通しだな」
「ふふ」

 ふたりで寄り添って眠りにつく。この幸せを、当たり前と思ってはいけないな、と俺は思い知ったのだった。