指の隙間から零れたの
03

 午後六時を少し過ぎた頃、あたしは自宅のキッチンで鍋をのぞき込んでいた。

「もーちょっと……」

 背の高い寸胴の鍋の中では、きらきらと輝く乳白色のシチューがぐつぐつと酸素を吐き出している。大方完成していて、あとは煮詰めるだけなのだ。
 することがなくなってしまったあたしは、しばらく踊るシチューを眺めていたが、ふと思いついて冷蔵庫の引き出しを開けた。取り出されたのはレタスが一玉。今日、ここに食事をしにくる人が、シーザーサラダが好きだったことを思い出したのだ。
 ぽいぽいとレタスを千切って皿に盛りつける。鼻唄まで添えてご機嫌なあたしの耳に、マンションの玄関からではない、部屋直通のチャイムの音が響いた。

「……先輩?」

 奇妙だ、と首を傾げた。もしも恋人でこの家の主である彼ならば、チャイムなど鳴らさないし、まず鍵を持っているはずだ。オートロックを抜けてきたのなら、なおさら奇妙だ。
 先輩に、俺のいない間に誰かが来ても軽々しくドアを開けてはいけない、と言われていたことを思い出し、どうしようかと逡巡した後、ドアチェーンをかけてほんの少し覗くことにした。

「はぁーい……?」
「あ、比奈ちゃん」
「……成沢先輩?」

 一瞬、先輩かと思った。学生時代の先輩にそっくりな、シャツの襟まで伸びた髪の毛をワックスで流し、何かに憂えるように下がった眉の下から黒い瞳を覗かせ、成沢先輩はあたしを見る。

「……開けてくれない?」
「え?」
「話があるんだ」
「うん……」

 知らない人ではないし、優しいし、と自分に言い聞かせるように先輩に言い訳しながら、あたしはチェーンを外す。
 するりとドアの隙間から入り込んできた成沢先輩は、明らかに怪しんでいるのが顔に出ちゃってるんだろう、あたしに苦笑して、少しうつむいた。

「あ、えと、上がるですか? お茶……」
「ああ、いいよ。すぐ済むから」
「……うん」

 首を傾げ、成沢先輩の言葉を待っていたあたしは、ふと火にかけたままのシチューが気になった。そういえば、サラダも作りかけだった。先輩と拓人さんが来るまでに間に合うだろうか。すぐ済む、と成沢先輩は言ったのだから、それを信用するしかない。