何も言わなくていいよ
05

 うららかに晴れた十八日。
 あたしはベンチに腰を降ろし、つぼみがほころび始めた桜の木を眺める。
 静かだ。車の音も人の声も聞こえない。高校が一望できるこの場所で、あたしは一日中先輩を待っていた。去年も、その前も。
 ひゅうっと冷たい風が吹いた。あたしは辺りを見回して、山を駆け下りて自販機のあるところまで来て、温かいココアを買う。
 ココアの缶を頬に押し当てたり手のひらで転がしたりしながら山を登り丘に……ベンチの前に、誰かいる。背の高い、柔らかそうな茶色の髪の毛の、男の人。
 ココアの缶が手のひらから滑り落ちた。その音に気づいたのか、その人が振り返る。瞬間、あたしは走り出していた。

「先輩!」

 振り返って細く笑んだ先輩に思い切り飛びつく。

「うわっ」

 突進したあたしを受け止めきれなかった先輩は、あたしを腕に抱いたまま丘をころころと転げ落ちていく。目が回ってぐるぐるする。
 丘を転びきったのか、回転が止まった。めまいがして、起き上がろうとして、それを阻まれていることに気づく。
 あたしにのしかかるようにして、先輩が優しい瞳であたしを見つめていた。

「……先輩……?」
「うん」
「ほんとにほんとに先輩?」
「うん」
「……っうう」
「ただいま」
「うわああん!」
「比奈」
「ひっく」
「ただいま……」

 先輩があたしにちゅっと軽くキスをした。ああ、先輩だ。先輩に抱きついてシャツに顔を埋める。
 ほんとに先輩だ。この匂いも、優しい青い目も、少し細い背中も、全部全部先輩だ。
 先輩、おかえりなさい。