ペアリングは靴の中に
08

 比奈ちゃんは軽い。小さくて細くて、幼い女の子のようだ。
 繁華街を歩きながら、噂を思い出す。去年数学科に入ってきた女子の中に、癒し系の可愛い子がふたりいる、という噂を。たぶんそれは、きららちゃんと比奈ちゃんのことだろう。その比奈ちゃんは、俺におとなしくおぶわれて、時折むずかるように鼻を俺の首筋に押し付ける。

「先輩、先輩」
「んー?」
「もうずっと一緒?」
「え?」
「どこにも行かない?」
「……」

 何のことを言っているのだろう。比奈ちゃんとは今日初めて会ったばかりだ。酔っ払って誰かと勘違いしているのだろうか。とりあえず、ずり落ちそうだった比奈ちゃんをおぶい直す。
 とろとろと甘えた声が耳のすぐ近くでして、吐息がくすぐったい。

「比奈、待ってたんだよ」
「……うん」
「ずっと待ってたんだよ」
「うん」
「でも先輩、来なかったから……」
「うん」
「もうどこにも行かない?」
「……うん」

 とりあえず、ここは機嫌を損ねないようにイエスと答えておくべきだろう。そう判断した俺は、馬鹿みたいに頷くのを繰り返した。
 うんうんと頷いていると、やがて声は力をなくし、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。

「……先輩、ねえ」

 ぼやきながら、比奈ちゃんの荷物をあさって定期を取り出す。改札にふたりで入ることができないので、駅員のいる通路を通った。
 俺と『先輩』は似ているのだろうか。そして『先輩』は今何をしているのだろうか。
 ぼんやりと、そんなことを考えた。
 きららちゃんが言っていた駅で降りて改札を出て右に向かう。駅からすぐだというそのアパートは、すぐに見つかった。本当に駅から近い。
 比奈ちゃんの鞄からキーホルダーを出して、鍵を開ける。真っ暗だ。まあ当然だろうが。
 一人暮らしにしてはいい部屋だな、と思っていると、廊下に面したふたつの部屋に、それぞれ『RINO』『HINA』とボードがかかっている。りの、という子と二人で暮らしているのか。
 とりあえず、HINAのボードがかかっている部屋のドアを開けて、ベッドに彼女を横たえる。
 それから、リビングへ向かい目に付いたメモ帳を一枚破ってりのさん宛てに手紙を書いた。
 比奈ちゃんが酔っ払ったのでここまで送り届けたこと、鍵はかけていくから比奈ちゃんに取りに来るよう言っておいてほしいこと。自分は学科の先輩であること。夏休みの今は大抵写真サークルの部室にいること。

「こんなもんか」

 時計を見ると、八時を回っている。りのさんがいつ帰ってくるかは知らないが、そこまで俺が考えなくちゃいけない理由はない。
 部屋に鍵をかけ、俺はアパートをあとにした。