ペアリングは靴の中に
02

「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
「あ、三人です」

 ファミレスのバイトにもだいぶ慣れた。今では注文をとるのも食器を運ぶのも手慣れてきて、憧れていた皿三枚を一気に運ぶこともできるようになった。
 男の人のお客さんや同じバイトの男の子も怖いけれど、前みたいに動揺することはない。それはきっと先輩のおかげだ。尚人先輩に慣れれば慣れるほど、高校生活も楽しめた。
 そんな先輩は、今あたしの隣にいない。遠い海の向こうで、がんばっている。たまに日本に帰ってくる拓人さんに聞くだけで、それが本当なのかは分からないけど。でも、あたしは拓人さんを信じている。
 バイトを終えて、ロッカールームで服を着替える。あーちんがお買取してきてくれたピンク色のキャミワンピに半袖のボレロを着て、外に出る。
 雨が降っていた。水玉柄の傘を差して一歩踏み出す。八月と言っても今年は冷夏な上、この雨で少し肌寒い。……そういえば、あの日も雨が降っていた。
 尚人先輩と約束した三月十八日。あたしは朝から、先輩がやってくるのを待っていた。しとしとと降り続く雨の中、夜の十時まで待ったが、先輩は来なかった。諦めて電車に乗って、梨乃が待っているだろう家に帰った。 梨乃は何も言わずに、温かい紅茶を淹れてくれた。

「しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん」

 どこかで聞いたことのある歌をうたいながら、パンプスの爪先が濡れるのを見る。ピンク色のラウンドトゥは、高校生のころからずっと履いていて、もうぼろぼろだった。新しいのが欲しいけど、先輩の家に足しげく通ったこのパンプスはきっと手放せない。手放したくない。
 捨ててしまえば、先輩とあたしをつなぐ何かがひとつ、崩れてしまいそうで。
 何も捨てることができない。このパンプスも、胸に光る、あたしの指には大きすぎるペアリングも、こまごました思い出も、何も。だって先輩は帰ってくるから。そうあたしに約束したから。だから捨てない。
 ココアが好きだった。先輩が作ってくれるココアは特別な味がして、自分で作っても同じ味にならないのだ。いったい先輩はあのココアに何を入れていたんだろう? 何か、隠し味になるものがあるはずなのだけど、それが分からない。だから余計に懐かしい。
 細い背中に抱きつくのが好きだった。抱っこしてもらうのも好きだったけど、おんぶしてもらうのも大好きだった。先輩のいいにおいが首筋から香ってきて、大好きだった。
 一人掛けのソファにふたりで座るのも、ベッドでまどろみながら腕枕をしてもらうのも、自分は飲まない牛乳をあたしのために冷蔵庫にストックしてくれていたのも、全部全部大好きだった。
 あたしはいつまでも待つから、ちゃんと帰ってきてね。