ペアリングは靴の中に
01

「比奈、遅刻するよ」
「わっ分かってるよ〜」

 午前九時。まぐまぐと朝ごはんを口に押し込んで、比奈が立ち上がってテーブルの脇に置いていた鞄を手にする。比奈の足に甘えるように絡みついていたタマは、比奈が突然動いたのに驚いたのか、するするっと離れて、少し遠くから様子を見るように比奈をじっと眺めている。

「行って来ます!」
「あ、あたし今日夜バイトだから、夕飯ひとりで食べてね」
「あいやい!」

 慌しく玄関で靴を履き、ドアを開けて比奈が出て行った。
 尚人先輩がいなくなって、二年半が過ぎた。あたしたちはそれぞれ希望した大学に無事受かることが出来て、今年の四月から二年生になった。今は夏休み中で、あたしも比奈もバイトに明け暮れていた。
 お互いの通う大学が近いことから、あたしたちはルームシェアをしている。比奈のお兄さんが、あたしと一緒なら安心だと、比奈があのマンションを出ることを許可した。週に一度は電話をするかマンションに帰るかどちらかをすることを条件に。ペットオーケーのアパートを選んだから、タマも一緒にここに引っ越した。
 高校三年生の比奈は、先輩がいなくなったことでずっとへこんでいたが、徐々に立ち直り、今は元気に笑うこともできている。でも、それは強がりで、やはり先輩がいないことを理解はすれどまだ納得はできていないんだな、と思う。

「にゃー」
「ああ、ご飯?」

 猫缶を皿に開けて、床に置く。すぐさまかぶりつくタマを横目に、ゆっくりと朝食をとる。
 比奈がバイトをすることにいの一番に反対したのはお兄さんだ。いわく、「そんな危ないことさせられるか!」だそうだ。お兄さんはバイトにどんなイメージを持っているのだろう。それを、お母さんが「バイトも社会勉強のうち」とお兄さんを押さえつけて、そして今に至る。お兄さんは、俺が比奈に仕送りするからバイトはやめてくれと泣きついていた。しかし比奈ももういつまでも甘えたさんじゃない。お兄さんの説得に一番効いたのは、「比奈もバイトしたい!」というわがまま(とお兄さんは言った)だった。
 そんなこんなで比奈は今ファミレスとアイス屋を掛け持ちでバイトをしている。ちなみにあたしは塾講だ。大学生は時給がいい。
 食べ終えて食器を洗いながら、ぼんやり先輩のことを考える。
 三月十八日、比奈は毎年その日は朝から夜まで、高校の裏手にある山まで行く。先輩と約束したのだそうだ。でも、今年で二回目のその日にも、先輩は現れなかった。
 ここのところ、先輩の噂をぼちぼち聞くようになった。つまり、先輩はモデルとして有名になりつつあるのだ。たまに日本にやってくる拓人さんからも、元気にやっていると聞く。
 大学でイタリア語を専攻しているあたしは、独学も兼ねてだいぶイタリア語が分かるようになった。だから、拓人さんがあたしの前で女に電話をしているのがすぐ分かるようになってしまった。そうなることを目的にイタリア語を専攻したのに、胸が痛い。二年前、当たって砕けて恋人同士になったのに、彼は浮気を繰り返す。

「……しかたないのかなあ」

 遠距離恋愛なんて性に合わない。あたしだってと対抗して浮気をしたことも何度かある。拓人さんと同じように彼の前で浮気相手と電話をしたりした。そのたびに拓人さんは怒ってあたしを責め立てる。そしてあたしも彼の浮気を指摘して、それで毎回けんかになる。
 会える時間は短いのに、不毛なことをしているあたしたち。一途な比奈が死ぬほどうらやましい。
 どうしてこうなってしまうんだろう。こうなってしまったんだろう。すべてはあたしが拓人さんに惚れてしまっているからだ。あんな浮気男より、大学のサークルの男の子たちのほうがよっぽどいい恋愛ができるのに、あたしはそれをしない。できないのだ。
 それほどに拓人さんの存在は大きい。