ドアは涙の音で閉まる
10
目が覚めた。三月十八日、朝の五時。
昨夜散々求めたせいで、比奈が目を覚ます気配はまるでない。起き上がって、ベッドをあとにしてシャワーを浴びようとロフトを降りた。なるべく静かに、彼女が起きないように。
シャワーを浴びながら、ゆっくり目を瞑る。顔にシャワーを当てる。首筋に絡みついたネックレスを指で確認して、目を開けた。
シャワーを出てジーンズを穿き、Tシャツの上にパーカーをはおる。飛行機は八時に発つ予定で、今から空港へ行くのがちょうどいいくらいの時間になりそうだ。
ロフトに上がって、ベッドに腰掛けて、眠る比奈の顔を見つめる。髪の毛が額に張り付いていて、それを払おうとすると乾いた汗のせいか、ぱり、と手ごたえを感じた。
狭い額。尻切れトンボの薄い眉。青白い肌。今は閉じている大きな瞳にまとわりつく細くて長い睫毛。ちょっとつまんだかのような尖った、小さな鼻。薄くて桃色をしている唇。細い首。浮き出た鎖骨。そこにかかるチョコレート色のつやつやした髪の毛。
安心しきったようにぐっすりと眠る比奈を、じっくりと見つめる。記憶に焼き付けるように、しっかりと。
「比奈……」
乾いた唇から、かすれた声を搾り出す。比奈は目覚めない。それは都合がよかった。今からすることは、比奈に知られてはいけない。いや、知られないようにする、と言ったほうが正しいのか。
比奈のサイズの指輪が揺れているネックレスを、ゆっくりと外す。それから、自分の分も外して、指輪を交換してもう一度比奈の首にかける。最後まで女々しいよな。
毛布をかけて、比奈の鎖骨まで隠す。
「大好きだったよ」
嘘じゃない。過去形だけど、今も大好きだ。
そっと、比奈の頬に唇をつける。起きる気配はない。
涙がこんもりと、瞳を覆っていくのが分かった。急いで比奈から離れて、目を閉じる。つ、と頬を流れた涙を拭き取り、ロフトを降りる。軋んだ音がして慌てて振り返るけど、比奈は起きない。よっぽど深い眠りの中にいるようだ。
タマは梨乃ちゃんに譲った。最初は渋っていたが、比奈のお願いが効いて、しかたない、というように引き取ってくれた。
この部屋も今月いっぱいで引き払う。後処理は拓人がしてくれるらしい。イタリアに俺を送り届けたあととんぼ返りで日本に行き、面倒な手続きなどを済ませるらしい。その間俺は、いきなり異国にひとり放り出すわけに行かず、拓人の家に預けられるそうだ。両親ともに日本語が使えるということだ。
そして、その拓人の家は俺の家にもなる。なぜなら、俺は拓人の両親の息子となったからだ。つまり、拓人と兄弟になったというわけだ。父さんに除籍されたあと、養子縁組を組んでくれた。とは言え拓人は、その家とは少し違うもう少し都会の部屋を俺と住むために用意しているようだけれど。
音を立てないようにキャリーケースを玄関まで持っていく。それからもう一度ロフトに上がって、比奈が起きていないのを確認して呟いた。
「さよなら、比奈」
ぽたり、涙が比奈の頬に落ちた。それでも起きない彼女に背を向けて、俺はゆっくりと玄関に向かう。
「……さよなら、ありがとう、比奈」
靴を履いて、少しだけ声を張り上げて言う。そして、ドアノブを回し外に出た。鍵は枕元に置いてきた。
外はまだ薄暗く、鳥の鳴き声が時折するだけで、静かだった。
ごろごろとキャリーケースを引きながら駅を目指す。今から行けば六時半には空港に着くだろう。
一度だけ、振り返ってアパートを見た。ぎゅっとネックレスに通った小さなリングを握り、また涙が出そうになって、慌てて上を向いた。
強くなるんだ。そのために手放すんだ。だから、こんなことくらいで泣いていてはいけない。
ぐっと息を止めてこらえて、パーカーで目をこする。そして再び前を向き、歩き始める。もう、後ろは見ない。
さようなら、比奈。元気で。
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