雨の日の魚と猫と天使
10

「やるわね、色男」
「小枝ちゃんも、一回寝てみる」
「やめてよ、年下に興味はないの」
「世の中には、青い果実が好きって人もいるけどね」
「……君が言うと、急に真実味が増すからいやだわあ」

 盛大に眉をひそめた小枝ちゃんが、抱えていた本を棚に戻しに俺に背を向けた。それと同時に、制服のポケットに入っていた携帯が震えた。

「もしもし」
『ごめんヒサトー、彼氏にばれそうだから今日やっぱ無理』
「……彼氏?」
『うん。また今度。ね?』

 今日約束していた子が、甘い声で、耳元で誘うように囁く。吐き気がした。

「今度はないよ。じゃあね」
『え? は、ちょっとヒサト』

 電源ボタンを押して通話を切る。耳から話した電話から、かすかにつうつうと音が漏れる。

「よかったの?」
「何が?」
「一回ドタキャンされたくらいで、せっかくの獲物、逃がしちゃうの?」
「……彼氏がいるなんて、聞いてないから。約束違反」
「はぁ?」

 怪訝そうな声を上げた小枝ちゃんに、ひらひらと手を振って鞄を背負う。そのまま、図書室を後にして、こんなことなら比奈ちゃんと一緒に帰ればよかった、とひとりごちる。
 とぼとぼと廊下を歩いていると、雨が地面を叩く音が徐々に大きくなってきて、さらにうっとうしい気分になる。昇降口で、どんよりと暗い空を見つめ、左腕に引っ掛けた傘を見た。

『金魚になったみたい』

 なぜか、分からないけど、その言葉が急に脳裏によみがえってきて、俺は、傘を差さずに一歩足を踏み出した。
 土砂降りの中遮るものがないのだから、当然俺は、即全身びしょ濡れになってしまう。それでも、今さら傘を差す気にはなれなくて、それを校舎の傘立てのほうに投げ捨てる。誰か、使うでしょう。
 いつもよりゆっくり歩いて、踏みしめた。
 魚なら、きっと生きるのに精一杯で、こんな痛い思いをしなくてもいいんだろうなって、考えた。
 駅までの道を、もはや滑稽としか言いようのない濡れ鼠姿で歩いていると、灰色ばかりだった視界の端に原色が映った。
 赤、と白。

「……比奈ちゃん?」

 おにゅーの傘なんですよ、と嬉しそうに図書室で広げようとしていた横顔が思い出される。赤と白のボーダー柄の傘が、公園の入り口に、開いた状態で落ちている。
 薄暗い景色に、目が覚めるような赤と白のマリンボーダー。俺は、まるで街灯に誘われる虫のように、それに向かってふらふらと歩を進めた。

「……」

 傘の中に主はおらず、代わりに、大きなペリドットの瞳が震えていた。しゃがみ込んで、目を合わせても、そいつは逃げなかった。

「傘のお姉さんは?」

 当然返事はない。