小さい人と欲しいもの
07
ぬるま湯に浸かってはいけない。自分だけがのうのうと平和に幸せに暮らしてはいけない。死んだ母さんの無念を引き継がなければいけない。俺は幸せになってはいけない。
朝からずっと母さんの隣に座っている。誰かが来る気配はない。墓石を洗って、数本のカーネーションを無造作に墓前に置いた。
墓地は、時間がスローに流れている、と思うくらいに静かだ。時折鳥の鳴き声や風に揺らされて囁く木々のほかに音はない。一時間に一度くらいの間隔で、少し離れたところにある小学校――俺が通っていたところだと思う――のチャイムがぼんやりと聞こえる。
ここにいると、思い出してくる。俺の役割を、正しい生き方を、母さんの怒りと悲しみと憎しみを。俺は、母さんを差し置いて幸せになっている。これは母さんへの裏切りだ。
静かな空間で、俺は噛みしめる。今の幸せを手放せ、それで母さんが報われるから。
比奈を手放す? 無理だ、壊れる。
「壊れたところで何か問題が?」
俺の中で、誰かがそう囁く。そうだ、俺が壊れたところで、崩れたところで、何か問題があるか? 社会のゴミがひとつ減る。喜ばしいことだ。
「ね、そうだよね、母さん」
「何がだ」
「……なんだ、来たの」
振り返ると、拓人が手をパーカーのポケットに突っ込んで仏頂面で立っていた。彼の仏頂面はレアだ。
と、拓人の後ろから甲高い声が響いた。
「拓人さあん、足速すぎですぅ」
「ああ、悪いな」
「比奈?」
比奈が、息も絶え絶えにこちらに向かってくる。俺に気づくと、にこっと笑って手を振って「せぇんぱあい」と気の抜けた声を出した。
「お前、顔色が悪いぞ」
「普段からだよ」
「今日は特に悪い。また何かいらないことを考えていたんじゃないだろうな」
「いらないことって? たとえば?」
「お前が生まれてきたことは、罪でもなんでもない。奇跡だ」
「そうだね、史上最悪の」