雨の日の魚と猫と天使
07

「えっ、あっ、ありがとうございます!」

 一限終了後の休憩時間に、俺は理数科一年生のフロアにいた。
 目の前には、にっこりはにかんだ比奈ちゃんと、うっすら眉を寄せた梨乃ちゃん。おそらく彼女は、今比奈ちゃんに渡した携帯を、俺がさっき裏庭で拾ってきたのではなく、やっぱり隠し持っていたのではないか、と疑っている。
 この間来た時は気付かなかったが、この二人の所属教室は理数科なだけあって、教室の椅子は半数以上を男子が占めている。比奈ちゃんはこんな環境で生活できているのだろうか。

「でも先輩、これいつ取りに行ったですか?」
「一限目だけど」
「さぼったですか!」
「うん」
「めっ!」
「って言われても、数学なんて社会に出たら必要ないんだよ」
「そんなことないのですよ?」
「商品の割引後の値段と、いくら出せば五百円がおつりで返ってくるかくらい計算できればじゅうぶんじゃない?」
「先輩、できるですか?」
「できるよ」
「えらいです!」

 なんだか馬鹿にされている気がするけど、まあいいだろう。

「桐生先輩」

 おつりの計算は大事、というようなことを言っている比奈ちゃんをぼんやり眺めていると、背後から甲高い声で名前を呼ばれた。
 振り向くと、青色の上履きと緑色のネクタイを身につけた少女がぽつんと立ち尽くしていた。

「何?」
「今日放課後暇ですか?」
「うん……ああ、いや、バイトある」
「じゃあ、あたしバイト終わるまで待ってていいですか?」
「んー……夜になってもいいなら、いいよ」

 にこっと安心したように微笑んで去っていった彼女の名前を、記憶から掘り出そうと後姿を眺める。ま、ま、まきちゃん、まみちゃん……ま、で始まる名前だったのは、確かだったはずなんだ。

「……先輩」
「なーに」
「……別に」

 俺は知っている。
 別に、と言ったこの後輩が、今のような俺の行為を好ましく思っていないこと。突き詰めて言うと、好まないと言うよりかは、憂えいている。
 少し昔の話になるが、節操なしの俺に彼女はそのつり上がった眉を精一杯下げて、こう言ったことがある。

『埋めるつもりが広がっている、ような気が、します。なんとなく』

 何を、とは聞かなくとも分かった。そして、俺の行為を彼女がそのように捉えていたのも意外だった。彼女は俺のことなんて、ただの女好きで自分の兄の友人程度にしか見ていないと思っていたから。そうだ、そう言えば彼は元気にしているんだろうか。
 言われなくとも、そんなことくらい、広げていることくらい自分で痛いほど分かっているのだ。
 それでもやめられないことなんて、誰にだっていくらでもある。