鍵の隠し場所を知る男
08

「比奈、そろそろ帰らないと」
「あ、はあい」
「じゃあ、あたしも」

 立ち上がって、比奈と梨乃ちゃんが玄関に向かう。拓人にちらりと目をやると、動く気配がない。

「お前も帰れよ」
「いや、少し話があるから、待っているよ」
「……?」

 比奈たちを追って外に出る。一応鍵をかけて、すでに階段を降りているふたりを追いかけた。
 マンションの前で比奈と別れ、駅前まで梨乃ちゃんを送っていく。帰り道、まだまだ日の長い中をとぼとぼと歩きながら沈んでいく夕陽に染まる町を見て、この世の終わりみたいだな、と思う。

「Bentornato」
「ただいま……話って?」
「いきなりだな」
「はやく済ませてさっさと帰って」

 コーヒーを淹れていた拓人が、苦笑いしてカップを俺に手渡す。受け取って一口舐めて、ソファに座る。拓人が床に座ってローテーブルに自分のカップを置いて、口を開く。

「モデルになるのか?」
「だから、まだ考え中だって……何か支障でもあるの?」
「……今だから言うが、ルカはデザイナーなんだ。ブランドも持っている。サユリ、というブランドを知っているか?」
「……知らない」
「そうだろうな。近々Giapponeに出店されるんだ。だからここに来たというのもある。もちろん、主にはお前に会いに来たんだが」
「ふうん」

 コーヒーをすすって、拓人は再び話し始める。まったく忙しい口だ。

「それで、実はGiappone進出のためにモデルを探していたところなんだ。ヒサトにモデルになる気があるのなら、ぜひお願いしたいんだが……」
「断る」
「どうしてだ?」
「あいつの商売を手伝えるほど心の広い人間じゃない」

 どうしてそんなに図々しいお願いができるのか、一度拓人の頭を割って中を見てみたい。コーヒーを飲み干し、俺は拓人をにらんだ。

「もしモデルになるとしても、その仕事は絶対に受けない」
「Giapponeだけでモデル活動をするなんてもったいない。どうせならもっと世界的にやりたくないか? Giapponeの事務所に入ったらそんなことはできない。俺がお前のマネージャーをやるから、頼むから受けてほしい」
「お前がマネージャー?」
「いろいろかじってるんだけどな。デザイナーよりは向いているようだから」

 言いつつ、拓人が自分の着ているポロシャツを指差す。

「これもサユリのシャツだ」
「ふうん」

 サユリ。母さんの名前を自分の立ち上げたブランド名にする男。いったいどんな思いでその名をつけたのか。愛しているから?
 少し心が好奇心で動いたが、次に拓人が言ったことが俺の心臓をどん、と揺さぶった。

「迷っているんだろう? ヒナのことを」
「何……」
「ずっとこのままでいたい。ヒナとこのままでいたい。だけど一人立ちしたい。ヒナに依存したままではいけない。一人になっても強くありたい」
「……」
「違うか?」
「そんなこと……」
「俺の観察力を笑うなよ」
「……」

 図星だった。比奈がいなくてもしっかりと立てる人間でいたい。何度そう思っては、比奈を欲しがるという矛盾を繰り返しただろう。
 もしも今比奈がいなくなったら? 崩れる。

「なあ、ヒサト」
「……」
「イタリアに来ないか?」
「え……」
「Giapponeでモデルになる前に、イタリアでモデルをやってみないか? お前ならきっと成功する」
「そんなこと」
「俺が保証する」

 ふと足立さんの顔が頭をよぎった。利発そうな眉に奥二重の小さな目、笑うと頬にできるえくぼ。「キミは絶対成功する。わたしが保証する」。