雨の日の魚と猫と天使
04

「……っあ、ご、ごめんなさ……」
「あ、……え、と」

 パシ、と小さく肌の擦れ合う音が裏庭に空々しく響く。
 払われた右手首を左手で包むようにして、比奈ちゃんが傷付いた顔で俺を見ていた。いや、違う。この目を俺は知っている、一番嫌いな目だ。

「……ごめん」
「えっと、えっと、えっと」
「……そろそろ、帰ろっか?」
「え、と、……あっ、でもまだ全部終わってないですよぉ」
「……ここ全部なんかやってたら、明日になっちゃうよ」

 ふたりだけでこの校庭裏全部なんて、無茶すぎるんだよ、だいたい。そう、言い訳じみた文句を少し連ねて、鞄を持ち上げて比奈ちゃんに笑う。
 学校から程近い場所にある比奈ちゃんの住むマンションまでの道を、なんとなく気まずい空気のまま歩いて、別れた。
 さようなら、と天真爛漫な彼女に取り繕うような笑みをつくらせた自分が、心底嫌いになった。
 比奈ちゃんと別れて乗った地下鉄で、ふと真っ暗な窓に映る自分の姿を見た。
 少し長めの前髪を真ん中で雑に分けて、首の辺りまで黒い毛がまとわりついている。直毛じゃないから、雨が多いせいで湿度が高い今の季節なんて、ほんとうに最悪だ。サイドの毛をくしゃりとひねると、残っていたワックスのせいか妙な方向に曲がってしまった。
 ……ほんとうに、最悪だ。
 ほんのわずかに手に触れた、細い腕の白い肌が、感覚としてよみがえる。枝のように細くて、小さくて硬くて、生気のない頼りない腕。
 少し無理をした笑顔がいつもよりきれいだったのが、気に食わない。きれいだけど、ちっとも可愛くなんかなかった。あんなのは、笑顔なんて言えない。
 何も知らないくせに、一丁前に気を使うふりをしたのも気に食わない。何も、知らないくせに。
 だけど、そんな卑屈な自分が、一番気に食わない。知らないことなど彼女の本位ではないのに、そしてそんなふうに考えなければいけない彼女の微笑みが、という無限の悪循環がめぐるばかりで。
 地下鉄の窓の外はどこまでも黒い。