遠いから逃げる臆病者
08

 優しさとはなんなのだろう。
 そればかりが頭をずっとめぐる。

「今日はどうしましょうか」
「ばっさり短く切っちゃってください」

 いつも世話になっている美容師に告げると、やや驚いたような顔でほんとうにいいの、と聞かれた。頷いて、鏡の中の自分を見る。逃げるなよ、臆病者。
 すっかり緑色になった桜並木が、窓の外に広がる。ばさばさと落ちていく自分の黒髪を見て、まるで冬の桜のようだと思った。実際は、桜ほど凛と強くはないし、美しくもないけれど。
 ふうと溜めていた息を吐いて、目をつぶる。大丈夫、覚悟はしてきた。それに、切ったからと言ってすぐに地毛に戻るわけじゃない。ゆっくり、ゆっくり伸びてゆくから大丈夫だ。
 目を開けると、すっかり短くなった髪の毛のおかげで、顔がいつもよりはっきりしている。やっぱりルカに似てる。吐き気がしたけれど、もうどうでもいいと思っている自分がどこかにいた。

「もうそろそろ梅雨だねえ」
「そうですね」

 美容師と世間話をしながら、俺は先日比奈に言った言葉のことを考える。
 優しくされたいから優しくする。誰かのために何かをしても、見返りを求める。
 全然、成長していない。期待はするだけ無駄だと分かっていても、結局は誰かに優しくされたくて大事に思われたくて、みっともなくいい人ぶってみせる。
 あの日比奈に吐露した、たくさんの事実と本音。母さんのことも父さんのこともルカのことも、佳美さん以外に話したことはなかった。それもあんなに具体的に言ったのは、比奈がはじめてだ。
 どこかで、比奈なら受け止めてくれると甘い期待をしていたのかもしれない。実際、彼女は俺を必要だと言ってくれた、いや言わせたというのが正しいのだろうか。一生懸命自分を必要だと言ってくれた比奈に、暗い気持ちが覆いかぶさる。してはいけない期待をしそうになる。
 ふと窓の外に目をやると、ぽつぽつと雨が降り出したところだった。道行く人たちが、いつもより早足になっている気がする。梅雨、か。もう、比奈と出会って一年が経とうとしている。