遠いから逃げる臆病者
07

「死んだのは、俺の母さんだったんだ。俺の母さんは、父さんと結婚していたのに、他の男と恋をして俺を産んだ。それがばれて、父さんは母さんを手ひどく扱って、身体が強くなかった母さんは死んだ」
「……それは、先輩のせいなの?」
「そうだよ。俺が母さんの血をもっと濃く受け継いでさえいれば、母さんが死ぬことはなかったんだ。だって、他の男の子どもだってばれないでしょ」
「……でも」
「俺のせいだよ」

 俺のせいだよと言い切った先輩の顔を、少し低い位置から見上げる。
 細い顎の線は丁寧なつくりで、触れたら壊れてしまいそうだった。青白い首筋にかかる少し長い黒髪はつやがなくて、ぱさぱさしている。

「だけど、いつまでも逃げていられないんだよね」
「先輩?」
「この間、ルカと会って話をしたときに言われたんだ、拓人に。ルカだけが悪いんじゃない、お前の母さんだって悪いんだろ、って」
「……それで、先輩はなんて言ったの?」
「何も言い返せなかった。そのとおりだもん」

 にこりと笑って頬を持ち上げた先輩は、いつもはまっすぐきれいな線を描いている眉を少し下げて、遠くを見た。視線の先にはテレビがあったけど、ついていないテレビを見ているのではないとすぐに分かる。視線が悲しい。

「拓人にそう言われて初めて気がついたんだけどさ。気づいたら、俺ってじゃあなんのために生きてるの? って思った。だって、望まれて生まれたわけでもないし、悪いことをして生まれた子どもが誰かに愛されるはずもない。俺ってなんのために生きてるんだろって、なんで生きてるんだろって」
「先輩は……」
「ん?」
「先輩のこと、比奈は大好きだよ。比奈は、ここにいてほしいって、望んでるよ」
「……ありがとう、でも、駄目なんだ」
「何が? 比奈だけじゃ駄目なの? そしたら拓人さんだって梨乃だってタマだって、皆、真中先輩もひよ先輩も純ちゃん先輩も、皆先輩のこと大好きだよ」

 なんて言えば、先輩が笑ってくれるのか分からない。思いつく限りの名前を挙げれば挙げるほど、先輩の瞳は悲しそうに歪んでいく。目を閉じて、先輩は歌うようにぽそりと、ありがとう、と呟いた。なのに、首を横に振る。誰に望まれたいの?
 どうしたらいいのだろう。先輩の泣きそうな顔は悲しすぎて、思わず涙腺が緩みそうになって、あたしが泣いては意味がないと慌てて先輩に身体ごと振り返って抱きついた。先輩のシャツの肩が少し濡れたかもしれない。
 あたしから抱きついたから、先輩は驚いたのかもしれない。少し固まって、慰めるような手が背中を撫でる。先輩はいつでもこんなに優しい。

「先輩は、やさしい」
「俺が?」
「うん。とても、やさしい」
「……比奈はたとえば、自分に冷たい人とか暴力をふるう人に、優しくしようと思う?」
「……あんまり?」
「でしょ」
「なあに?」
「俺さ、人に優しくされたいんだよ」
「んん?」
「優しくされたいから、優しくする。見返りがほしいんだ」
「……」
「だから、比奈の言う優しいとは違うと思う。打算的で、偽善者」

 そんなこと、ないのに。
 その言葉は、その悲しい瞳を前にするとどうしても言えなかった。