遠いから逃げる臆病者
06

 最近、ずっとぼうっとしている。
 遠くのほうを見ては泣きそうに顔を歪めて、切ない目をする。

「髪を、切ろうかな」
「え?」

 先輩が、ぼそりと呟いた。あたしを膝の上に抱えて、あたしは膝にタマを抱えている。振り向くと、少し伸びた前髪を細い指でつまんで、先輩が目を細めていた。ああ、まただ、その悲しい瞳。
 最近ようやく、先輩が不意打ちのように触れてくることに慣れるようになった。梨乃がこの間言っていた、その、エッチ、には、全然遠いと思うけれど、あたしにとっては大きな進歩だ。でも、あたしはどうして、大好きな先輩に触れられることが、恥ずかしいのではなくて怖いのだろう。何かがあたしの邪魔をする。先輩、大好き。そんな気持ちを何かが邪魔をする。
 大好きだから、先輩に触れたい。その少し傷んだ髪の毛に指を通して、薄いまぶたに触れて、きれいな形をしている頬に手のひらを滑らせてみたい。先輩の肌はきめが細かくてきっと気持ちがいい。そう思うのに。

「短くするですか?」
「うん……黒髪は、もうやめようかなって」
「染めないですか?」
「……うん」

 先輩は、ルカさんと同じ色をしているらしい自分の地毛や瞳を嫌う。あまり多くは知らないから何も言えないけれど、ルカさんにそっくりな先輩があんなきれいな髪の毛の色をしていたら、きっともっと素敵になる。でも、先輩はルカさんのことを嫌いなのだ。だから、自分の地毛も瞳も嫌いなのだ。どうしてかなんて知らないし、先輩は言わないから知りようもないけれど、それはとてももったいないことだと思う。
 そんな先輩が、髪を切ると言う。

「何か、あったですか?」
「……比奈はさ、誰か、大事な人が死んじゃったことってある?」
「……昔飼ってたハムちゃんが、死んじゃった」
「悲しかった?」
「うん、すごく」
「そっか……俺も、昔に大事な人が死んじゃったことがあるよ」
「……」

 きっと、お母さんのことを言っているのだ、と分かった。先輩は、悲しそうな顔で、俺はね、と小さく呟いた。

「俺はね、悲しかったとかじゃなくてね、怖かった」
「……」
「その人は、死ぬ前に俺を許さないって言ったから、怖かった」
「許さない?」
「そう。その人は、俺のせいで死んじゃったから、だから許さないって言った」

 先輩のせいで? 拓人さんに、先輩はお母さんを早くに亡くしたと聞いた。早くにということは、先輩はもっと小さくて小さくて、そうきっと子どもだったときで、子どもに大人が殺せるはずがないのに。
 不思議に思って首をかしげると、先輩が苦く笑った。先輩の苦笑は、しょうがないなあ比奈は、と言われているみたいで嫌いじゃないけど、今の笑顔は悲しそうだったからあまり好きじゃないなと思った。