全て悪い夢だったなら
08

「……こんばんは」

 比奈から腕を放すと、後ろからどすのきいた声が地を這うように聞こえてきた。振り向くと、スーツ姿で俺をにらんでいる比奈のお兄さん。会社帰りだろうか、程よい疲労感が漂っている。

「テメェうちの比奈ちゃんによくも……!」
「すみません」
「お兄ちゃんお帰りー」
「うんただいまー……そうじゃなくて!」

 なんだか知らないがものすごく怒っている。恋人同士がキスをしてはいけないのか。

「こんな外でそんな破廉恥なこと比奈に強要しやがって……親の顔が見てみたいね」
「……」
「っとに、どういう教育されてきたんだか」
「お兄ちゃん!」
「……帰ります」
「あぁ?」
「お兄ちゃんのおばかっ!」
「いて、あ、比奈ちゃ……」
「比奈!」
「お兄ちゃんなんて大嫌いっ!」

 比奈が、お兄さんの頬をパチーンと叩いて夕方の暗闇に消えた。
 呆然としているお兄さんより一足先に我に返った俺は、慌てて比奈のあとを追う。
 たぶん、俺のせいで怒ったんだ。一瞬でも顔を曇らせたから。
 親の顔が見てみたい、どういう教育されてきたんだか、これらの言葉が俺の心を抉ったことに、気づいたのだ。いつものぽやっとした比奈らしくないけど、それ以外に理由が思いつかない。
 そんなに足が速くないはずの比奈が見当たらない。とりあえず、きっとどこかで走り疲れて座り込んでいるのではないかと見当をつけ、近所の公園に向かった。
 こんな真っ暗なところに比奈をひとりにはさせられない。