呼ぶだけで震える生命
10

「はーっ……生き返った……」
「もとに戻っちゃった……」

 その辺に置いてあったクレンジングで顔を擦り、ばしゃばしゃと水道の水で洗う。
 まだおかしな感じはするが、鏡で見るとほとんど化粧は落ちている。隣りで比奈ちゃんがちょっと残念そうに見ているが、無視だ。
 うちのクラスが準備に使っていた、つまり俺が強制的に着替えさせられた教室で脱ぎ散らかされた制服を確保して、比奈ちゃんに目を背けられながらもセーラー服を脱いでワイシャツに袖を通す。
 悪夢みたいな格好から普段の制服姿に戻った俺は、ふぅと息をつく。

「あ、マスカラついてますよ」
「ん」

 頬に指が伸びて掠ってゆく。
 その手首を無意識に掴んで引き寄せると、小さな体が座り込んだ俺の足のあいだにおさまった。

「せっ、せせせせっ」
「んー。なんか美味しそうなにおいする」
「やっ焼きそばっ……ひゃー!」

 鼻を比奈ちゃんの首筋に埋めて深く息を吸い込むと、たしかに、彼女の普段の石鹸のにおいとともにソースのかおりがする。
 いろんなクラスの前準備や物置になっているこの階にはひとけがなくて、比奈ちゃんのおたおたする声が響くばかりだった。

「ひーなーちゃん」
「……っ」

 耳元で遊ぶように囁くと、真っ赤になって口をあわあわと震えさせている。この反応が見たくて、いつも意地悪してしまうのだけど、本人はきっと気付く余裕すらないのだろう。
 その赤い顔を見ていて、ふと前から思っていたことを実行に移してみようと考えた。

「……比奈」
「……!」

比奈ちゃん、というのはなんだか他人行儀な気がしていたのだ。やっぱり、恋人同士になったからには呼び捨てで呼ばれたい。

「俺の名前、呼んでほしいな?」
「……ぅ、先輩……?」
「違う。尚人、でしょ? 先輩だと梨乃ちゃんと一緒じゃん」
「あうっ」

 柔らかくて小さい耳たぶを歯で甘く噛む。
 なんか、前にも似たような問答をしたなぁ、と記憶を掘り起こす。……ああ、付き合うもっと前に図書館で襲いかけた時だ。そういえばあの時にこの子のファーストキスも一緒に奪っちゃったんだったっけ。
 こんなことになるなら、もっと味わっとくんだったな。

「呼んでよ」
「……と」
「聞こえないよ」
「…………ひさと」

 囁くより小さく、ほとんど吐息のように吐き出された俺の名前。それでも俺は満足だった。
 きっとすぐ呼び方は「先輩」に戻ってしまうのだろう。それでもいい。時々、名前で呼ばれるほうが新鮮かもしれない。比奈の代わりに俺がたくさん呼べばいいだけの話だ。

「比奈、比奈」
「……もうっ!」

 耳まで真っ赤にして、両手で顔を覆ってしまった比奈が、もう可愛くて可愛くてたまらない。