帰路



思い返せばあれも去年の冬。
「海、行かない?」
彼女の提案はいつだって、そう。言葉だけはその体をなしてはいるものの、実質強制に近かった。断られる事など、微塵も考えてはいない。もとより、断るつもりはなかったけれど。夜明け前の始発列車は酷く寒い。結露した窓硝子は幾つもの景色を置き去りにしていく。水滴が滲んだその街々に暮らす、名前も顔もない人達を思った。冷たく悴んだ手を隣に座る彼女の掌に重ねる。赤い起毛の座席の上で重なり合った二つの肌はお互いに些細な体温を分け合って、震えていた。がたがたと列車は揺れている。踏切の上を通る度、吊革が大きく動いた。英会話、脱毛、御歳暮、紅白歌合戦、形をなさない幾つかの文字は色とりどりに装飾されて、紙の上で読まれる時を待っている。ぽつぽつと車内に点在する疎らな人影は何処に向かって行くのだろう。彼女の唇が何か言いたげにニ、三度開かれては、閉じる。その度に覗く真赤な舌は夏の色をしていた。結局彼女の音は文字をなぞることはなく、置いて行かれる見知らぬ街の中に混じって消えた。重ねた私の掌の下で彼女の爪は真白に光り、私の心に小さな引っ掻き傷を残す。幾つかの駅を通り過ぎて、彼女と私と、その二つの息だけが列車の中に満ちていた。線路の終わりの駅で私達は列車を降りた。潮の臭いが風になって繋いだ侭の手を無遠慮に包む。冬の海に、人の気配なんて欠片もない。黒斑の空を海鳴りが横殴りにしている。けれど重く立ち込めた雲は千切れることを知らない。鉛色をした海を引き摺る砂浜を真っ直ぐに、淀みなく彼女は歩いていった。ほどかれたその掌だけが熱を持つ。薄っすらと湿った砂の上には靴と靴下だけが残されていた。足跡は海が持って行って仕舞う。脛の真ん中あたりまで潮に呑まれて、そこで立ち止まり、ぐるりとこちらを振り返った。長く伸ばされた髪の毛が弧を描いて落ちる。足元で波が音を立てて泡立っていた。彼女は薄い唇を少し吊り上げて、笑う。
「来ないの?」
びゅうびゅうと耳鳴りがした。露出したそこから皮膚が裂けてしまいそうな程に風は冷たい。私は駆け寄らなかった。決して彼女を拒んだからではない。寧ろ、何時もの私なら彼女がたとえ拒絶を示したとしても、 ついていっただろう。けれど、何故だがその時は、彼女の後を追ってはいけない気がしたのだ。冬の海はこんなにも彼女に相応しくない。二進も三進もいかなくなって、途方に暮れる私を見て、彼女は満足したようだった。薄く細められたその目の奥で感情の落とし所を見つけた様なその顔に既視感を覚える。その時の私がどんな顔をしていたのかは、知らない。けれど彼女が満たされたのなら、それですべてが良いような気がした。たゆとう波から足を引き、寒むいね、と言いながら此方に戻って来た彼女の脛は当然の如く冷えきっていた。そう彼女は触れることを、私に許したのだ。そこで拒んでくれさえしていたなら、と思わずにはいられない。 もし、慈悲深くもそうしてくれていたならば、どんなに浅はかな私でも、これ以上を望まなかっただろうに。この海とあの列車は違うというのに。

あれから彼女に一度も会わなかった訳じゃ、ない。それこそ、海で会ったこともあったし、街で会うこともあった。けれどそれらはすべて、偶然の邂逅か、私が呼び出したものだけで、彼女からの提案に似せた強制を受けたのは、あれが最後だった。つまり彼女が所望したのは去年の鉛を固めた様な、あの凍える海だけだった。

蝉の泣く季節は、まだこない。全ての生命が生きて死んでいく、まるで彼女を体現したかの様な夏は、まだ、幾分と先だった。一つ、息を吐いて寝床を転がる。ぎい、とベットが悲鳴をあげた。人が二人も乗っているのだからその訴えは尤もだ。大人になった時に新しくしたという銀のパイプのベットは大凡彼女らしくなかった。彼女の実家にあったパイン材の明るい茶色が少し懐かしい。あの時の私達は何でも知っていた。太陽が如何して東から昇るのか、魚の目に如何して瞼がないのか、世界の理の全てが私と彼女の手の上に在った。少し笑えば空気が微かに震える。唇から漏れた吐息が彼女に届く、それを追い掛ける様にして彼女の手首をとった。甲を滑って指先に指先を絡める。かつりと爪がぶつかる。その肌は不思議な程私の掌に馴染み、皮膚を越えて混ざり合う温度は微睡みの様に緩い。慈しむ様にその手を頬へと寄せた。
「ねえ、貴女も私も失敗したのよ。あの冬の海で、互いに互いを重石に括って鉛の海に沈めて終えれば良かったのに」
彼女はきっと彷徨い続けているのだろう。行き場所をなくした思いがそうである様に。彼女はその暁闇を思わせる瞳を二つ、祈る様に閉ざした。
「次は、そうしよう。貴女の良い様にしよう」






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