ありがたふ2

夏の始まりの熱気がぶわり、と地中から這い上がって来ている。長雨にはならず、時折雷雨を繰り返す、この年は何もかもが異常だった。海沿いのこの町にも膿んだ空気は満ちている。漁師町特有の潮と魚の腐った臭いに混じって、人々の悪意が潜んでいた。雨が降らなければ農村で作物が育たない、育たなければ値があがる、値があがれば、生きていけない。開け放った障子から朝日が入ってきている。夏を予感させるその光は、寝起きたばかりの目には些か眩しかった。幾筋かの光りの中に、埃がきらきらと舞っている。透き通る空気の中に微かな暑さを感じた。
「夏が来て、しまうな」
寝起き特有の、掠れた声が喉から落ちる。じじじ、と庭先で早孵化の蝉が鳴いていた。女は1度つ、と其方を見遣ると視線を此方へと寄越した。逸らされることのない目は、相変わらず、何を思っているのかわからない。ただ、鏡の様なその真黒に映る自身の、困惑した顔だけがそこにあった。寝乱れた布団の上に女の黒い髪が広がって、夜の様な闇をつくっている。その白い首筋に、虫の食った赤い痕を見つけて、そろそろ蚊帳をだす頃合いか、と思った。
「ええ、漸く夏がきます」
すがすがしささえ感じさせる声音で、女は言う。過ぎ去った冬と春とを、要らなかったもののように、無くなって清々したとばかりに目を細めた。女にとって、冬春は正に無かった様なものなのだろう。秋の半ばに売られる所を取りやめになって、冬が終れば今度こそ、と言われて、平常でいられる人などいるはずもない。行き場所をこうして見つけていても、奥底には怯えがずっと潜んでいたのだろう。色の無い様に見えるその顔の下で、女はきっと安堵の息をついているに違い無かった。

結局、女の母が言った様にはならなかった。冬を越える前に女は妻として、俺の家に居着いた。細やかながらも祝言は終えていたし、女の実家に幾ばくかの金も渡した。新しい車を飽きらめる事にはなったけれど、後悔はない。けれど、何か腑に落ちない、形をなすことのない何かが己の内に渦巻いていた。あの日、駅に着いたあの夜に、抱いた少女の身体が良かったのか、と問われれば疑問を以って返すしかない。ならば情が移ったのか、と問われても同じ様に返すしか無かった。少女の様に、後生だからと乞われて抱いた女は幾らでもいた。もっと美しいのも、上手なのも、それでも何故彼女だけを帰りの車に乗せたのか、わからない。真実、正しい答は無いのかも知れなかった。己の中にも外にも、最初から存在しなかったのかも知れない。寝乱れた布団の上に肘をついて身体を起こす。血の気の足りなくなる様な、ぐわり、とした感覚に頭を振った。灰吹を手繰り寄せて、枕元の煙草へと手を伸ばす。傍へ放ってあった燐寸を擦った。薄い火薬の臭い。ぼっ、という鈍い音を立てて燃えた木の棒から、火を移す。煙草を咥えて、使い終わった燐寸を降った時、指先に赤が滲んでいるのに気が付いた。何処で怪我をしたのだろうか。自覚した途端に鈍い痛みがやってくる。じんじんと、波紋が拡がる様に流血を主張するそれはまるで、煮え切らない己の心の様に似ていた。
「あら、」
やけに白く映る布団の上へと上体を起こして、女は俺の手を取った。ぞっとする程に冷たい指先が甲を這い、親指の付け根をくるり、と一周させると、そうっと、口へと運んだ。女の口内に入ったそこだけが厭に生暖かい。ちゅう、と音を立てて女は指を吸った。
「唾をつけておけば、治るでしょう」
女は口から指先を離すと、空いた片手でつ、と口を拭った。拭いきれなかった唾液が唇の端でてらてらと光っている。紅も塗っていない筈のその唇がやけに赤いのは錯覚だろうか。女が微笑む度に、あの日の漠連女の姿が見えた。整えられた細い眉、狐の様な切れ長の目、眼前の女と重なる部分はない筈なのに、あの女の影が離れない。ゆうらゆうらと、背後で己を嘲笑っていた。黒目がちの瞳を細めて。そうだ、あの時漠連女は何と言ったのだったか。義母と己の会話を盗み聞いたのか、車を降りるときに漠連女は唇の端を歪めて笑っていた。白粉の臭いの肌に、ひび割れの如く紅をひいた口が、やけに濡れて見えたのを覚えている。
「お気を付けよ、少女も女の端くれさ」
お兄さんみたいに容量の良い人程、引っ掛かるんだ。はじかれて、その腕を掴もうと伸ばした手を漠連女はするり、と抜けていく。漠連女の提げた風呂敷の内で、かちゃりと酒瓶の鳴る音がした。ふふふ、と笑いながら足早に去っていくその背が、改札の端に消えるのをただ、間抜けに見詰めていた。

ねぇ、と名前を呼ばれて顔をあげれば、女が此方を見ていた。揺れる、真黒の瞳の奥に潜んでいる感情が何なのかはわからない。白い、ふっくらとした頬は朝日を浴びてきらきらと瞬いている。その顔は、まるであの日と同じであるのに、中身だけがそっくり入れ替わって仕舞った様に、女と少女は分かたれていた。庭の蝉の声が脳裏に響く。ああ頭が割れそうだ。じじじ、じじじ、と仕切りに愛を歌っている。
「私のこと、愛してくれているのでしょう?」
女は一言一言を噛み砕く様に、そう言った。唇は相変わらず赤く滑っている。蝉はもう鳴かなくなった。





川端康成の「ありがたふ」より



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