ありがたふ

父と、母と、一つ下と三つ下の弟とで暮らしている。父は海に出ていることが多いから、滅多に顔を見ることはなかった。隙間風も入れば雨も漏れる、粗末な家だったけれど、この海沿いの町の家はみんな似たようなものだったから気にはならなかった。
「冬が来る前に、お前を東京へやらなきゃね」
父の肌着を繕いながら、母が日常の会話の延長の様に言った。
「雪のなか、長旅するのは可哀想だもの」
パチン、と糸を切って垢染みた肌着を隅へと放った。遠くを子供が駆けて行く声がする。かつての私は三人姉妹の末妹だった。二つ上の姉やは朝顔の咲く暑い夏の日に、五つ上の姉やは雪が溶けて直ぐの寒い春の日に、売られていった。弟達は男の子だから、やがて漁師になって、家を継がなきゃいけない。私は女の子だから、漁師にはなれなくて、けれど子供の数が増え過ぎたから、お嫁の行き先もなかった。
「雪の日は、嫌だわ」
はい、と返事をするのは嫌で、けれど仕方が無いことだとわかっていたからそう応える。母の顔は見なかった。また何処かで、子供の声がした。弟もあの中にいるのだろうか、とふと思った。




自身を美しいと思ったことなどなかった。人より劣っているとは言わないけれど、秀でたところなど一つもない、そんな人間が私だった。見目さえよければ、此処よりも良い暮らしが出来るだろうよ、母はそう言って私に一張羅のべべをくれた。どこにもほつれもあてもない着物を着るのは生まれて初めてかも知れなかった。待合所で母と並んで椅子に座る。木の板に座布団を置いただけのそれは、足が不安定で少し動く度にきいきいと揺れた。風が、生臭い潮と魚のにおいを運んでくる。東京に、海はあるのだろうか、と思った。もし無いのなら、海のにおいのしない街はどんなのだろう。東京は何のにおいが、するのだろうか。遠くを見ている母の横顔を盗み見た。幸せそうに細められた目尻や、人の良い笑顔を絶やさない口元。重ねた歳の数だけ、慈しみを形成していく母の顔は優しい。けれど私はその裏にある、計算高い、女の顔を知っていた。姉や二人を私と同じに東京へ売った時、母の窄められた目の奥が意地悪く炯炯と光っていたのを覚えている。姉や達はそれを知っていたのだろうか。きっと、知っていたに違い無い。彼女達は私よりも余程美しく、賢かったから。待合所の女がお茶をくれた。それを受け取って、一口啜る。出涸らしの、苦い味がした。
「娘さん、本当に東京へ…」
「ええ、もう、遊んでいられる歳でもないでしょう…」
母と待合所の女が私のことを話していた。私のことだというのに、現実味を帯びないそれらは耳から入って、反対側から抜けていく。寝起きたばかりに聞く、周囲の声に似ていた。手持ち無沙汰に待合所を見渡せば、数歩先の突き出た畳の上に、行儀悪くごろりと寝転がっている人がいる。短くなった煙草が彼の右手で烟っていた。降ろされた睫毛は長く、鼻筋はしゅっ、と通っていて、もしかすると話に聞く異人さんはこんな顔をしているのだろうか、と思う。東京にはきっと、男も女も、彼の様に綺麗な人がいっぱいいて、私なんか誰も目もくれないんじゃあないだろうか。まじまじと見詰めていると、不意に彼が此方に視線を寄越して、私は慌てて目を逸らした。
「奉公先はお屋敷かね、」
待合所の女はそう言った。母がちらり、と視線を寄越す。その黒い目は何と言って欲しいの、と問うていた。私はそれに何もこたえなかった。何をこたえたら良いのかわからなかった。黙ったままの私達母子を見て、待合所の女は何かを察した様に小さく首を降る。つい、と顔を背けて、
「可哀想に、可哀想にねえ、」
と独言ちる様にぶつぶつと呟いた。そうして、乱雑に積まれた土産物の棚から菓子の包みを二つ取り出して、母へと手渡す。丁寧にそれを受け取る母を見て、私も頭を下げた。

視界の端で、今迄だらしなく寝転んでいた男が、腕時計に目をやってがばり、と勢い良く跳ね起きた。短くなった煙草を灰吹へ投げると、傍らに置いてあった帽子を手に取る。母がおや、と目を見開いた。
「今日は、ありがとうさんの車かね、なら、この子もきっと、幸せだろうよ」
母の言葉に男は曖昧に微笑んだ。洋袴のおとしから取り出した手袋をはめながら、ありがとうさんは車へと歩いていく。彼は先程の会話を聞いていただろうか。もしそうなら、売られていく私を可哀想だと思っているのだろうか。それとも、もうきっと何人も、こうして売られていく子を運んだに違いないから、何も思わなくなってしまったのかも知れない。帽子を被ったありがとうさんの顔は影になっていて良く見えなかった。待合所の女が、他の車を待っていた人たちに声をかける。ぞろぞろと緩慢な動作で足を運ぶ乗客に、ありがとうございます、ありがとうございます、と頭を下げていた。車の後ろの方にしゃがんでいた三人の女が立ち上がったのが見えた。
「景気が良かったら、教えてよ」
右端の女が手に持っていた洋酒の瓶を真ん中の女に渡す。三人旅なのかと思っていたけれど、車に乗るのは彼女だけの様だった。
「そんなの、どこも変わりゃあしないよ」
けらけらと切れ長の目を細めて笑う女の声は良く通って、ざわめきを縫って私の方まで届く。女は縦縞の着物のをしゃん、と着こなして、結い上げられた黒髪には髪飾りが揺れていた。色白の肌に、真赤な紅をさしていて、唇を開くたびきらきらと真昼の太陽に反射している。整えられた眉は細く、港町の誰とも違う、世に慣れた女の顔をしていた。言葉の端々から、誰にも頼らない、という気概が感じ取れて、心底羨ましかった。私もいつかああなれるのだろうか、と思う。立ち止って彼女等を見ていた私を、母が咎める様に急かした。ごめんなさい、と小さく呟いて母の後を追って車に乗り込む。母はああ言った手合いの女を毛嫌いしていた。品のない、蓮っ葉な、といつも慈母を装っている顔を顰める。その度に、母さんに売られた姉や達はどうなるの、と聞いてみたい衝動に駆られていた。
「東京へ行っても、あんな風になるんじゃあないよ」
腰をおろした一番後ろの席で、母が私に耳打ちをする。念を押す様に重ねられた母の掌はひどく冷たかった。はい、と頷きながらも、そんなのは無理だと心の内で思う。あの女の様じゃなきゃ、東京じゃあきっと生きていけないに違い無かった。私は強く、生きたかった。車を降りて、電車に乗って、東京についたなら、あの女のみたいに、誰にも頼らない人になろう。最後に髭をはやした男が乗り込んで、扉が閉まった。ありがとうさんが、此方を振り向いて、幾つか指差し確認をする。よし、よし、よし、真白の手袋に覆われた人差し指が車の中を彷徨って、最後にハンドルの上へと降りる。どっ、どっ、と尻の下で座席が揺れていた。ゆるゆると動き出した車は、直ぐに凄い速さまで達して、街角を曲がっていく。峠を二つ越えた先の駅が遥遠くの存在から、現実味を帯びた存在へと変わった。窓の外の景色がくるくると入れ替わる。暫く海沿いを走っていた車は、段々と山へ入って行った。見慣れない棚田が広がって、電線が山間の村を繋いでいる。開け放った窓から微かに砂埃が入ってくる。つん、と鼻奥をつく瓦斯の煙に、潮のにおいがしなくなった事に気が付いた。これが東京のにおいなのかも知れない。




川端康成の「ありがたふ」より

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