羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 目が覚めたら知らない場所にいた。
「……え、どこここ」
 思わず独り言が漏れる。起き抜けのまどろみなんて一気に吹っ飛んで、上半身を勢いよく起こすと頭に激痛。
「いっ、てえ……くそ、まあ大分酒は抜けたか……」
 頭を抱えた。確か昨日は客の羽振りがやけによくて付き合いで文字通り吐くまで飲んで、また飲んで、吐いて、吐いて、せめてもの抵抗で水を思い切り飲んで店を出てどうにか少し歩いて、それからの記憶がない。落ち着いて自分の状況を整理しようとしても、酔っぱらって起きたら知らない場所。もうどう考えても最悪な結論しか出てこないんだけど……知らない間に適当な女とか引っ掛けたのかな……。
 冷静になろう、冷静に。この部屋、やけに広い。ベッドではなく布団で、床は畳だ。とりあえずラブホではない。スーツの上着が無いがどこにいったんだ。そして更に謎なのだが、シャツとズボンの上から着流しみたいなものを着せられていた。いやいやおかしくねえ? どういう状況だよ。
 とりあえず財布とその中身の無事を確認しつつも首をひねっていると、部屋と外とを隔てる障子に人影が映る。
「目は覚めましたか? 入りますが、大丈夫ですか?」
 この時の俺の驚きを誰が分かってくれるだろうか。男だ。男の声だ。もう何が何やら分からない。とりあえず絶対に同僚ではないことは分かる。声がまだ幼い気がする。
「……? 大丈夫ですか? どこか具合が悪かったりします?」
「え、あ。ごめん、大丈夫」
 俺がいつまでも返事をしなかったからなのか、声の主は律儀に障子を開けずに待ってくれていた。「開けていいよ」俺の家でもないのに俺が許可を出すのはなんだかおかしい気もしたが、そう言わないといつまでもこちらに入ってこないことに思い至ったので慌ててそう言う。すると、とても静かに障子が開けられた。

「――よかった。顔色、悪くないですね」
 そこにいたのは、たぶん高校生くらいの男だった。
 真っ先に目がいく三白眼気味の瞳に、墨を溶いた感じの黒髪。僅かに下がった眉が目つきの悪さを緩和している。そして、とても姿勢のいいのが印象的だ。
「え……と、俺、ちょっと状況が分かんねえっつーか」
「ああ。簡潔に言うと……あなたが道端で行き倒れていてまったく起きないので、家で介抱しました」
「えっ! うわっ、マジで!?」
「服、汚れていたんですけれど流石に着替えは無理だったので、不格好ですが上から一枚着ていただきました。すみません」
「すみませんっていやいや俺がすみませんなんですけど……え、マジか……ええー……」
 見ず知らずの他人に迷惑をかけてしまった。もしかすると適当な女引っ掛けてラブホよりも尚悪いだろこれ。というかこいつ、よくもまあ道端に倒れていた他人を連れ帰って介抱とかできたな。俺だったら絶対スルーしている。
 そんな俺の葛藤など知らず、目の前で心配そうな表情をしている男。
「お金とか盗られていませんか? あ、上着は後で持ってきますね」
「や、金は大丈夫……っつーか何、至れり尽くせりすぎでしょ……。きみ、菩薩か何かなの? 拝んどこうか?」
「何を言っているのかよく分からないですけど、菩薩ついでにお風呂も用意してあるのでよかったらどうぞ」
 つい仕事と同じようなノリで喋ってしまって、真面目に返されたから言葉に詰まる。いや、風呂って。「地べたに倒れていたから汚れているでしょう」と穏やかな表情で続けるそいつ。そこまで図々しくはなれねえよ、迷惑かかるし……と呟くと「今更じゃないですか。大丈夫ですよ」とよく分からないフォローをされた。マジでごめん。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」
「はい。バスタオルは持っていっておくのでご自由にどうぞ。こっちです」
 きみけっこー強引ね。そう言いたい気持ちを抑えて、俺はおとなしくそいつの後について風呂へと向かったのだった。


 よく考えたら俺、あいつの名前すら知らねえんだけど。
 そんなことを思案しながら浴槽に体を沈めて、思う存分脚を伸ばして、俺は他人様の家の風呂を満喫してしまっていた。
 だってお前、これ、檜だよ!? 個人宅に檜風呂とか見たの人生初。ビビるわ普通に。これで確定したけどあいつ絶対一般人じゃない。たぶんすげー金持ちのお坊ちゃんか何かだ。だって風呂場に来るまででもやけに長い廊下を通ったし右手側に見える庭は広いしおまけに池にはししおどしまであったし。枯山水もあったかもしれない。すげー人に介抱されてしまった。話のネタにできそうだ。
 ここまできたら色々遠慮しても仕方ないので、髪もしっかり洗ってボディソープも使ってかなりの時間をかけて風呂に入った。だって、たぶん俺のためだけにお湯張ってくれてるじゃん。今、朝だし。酒が完全に抜けきってないのを見抜いたのかなんなのかぬるめのお湯だし。めちゃくちゃ気持ちいい。
 用意されていたバスタオルはふっかふかで、いつもシャワーで風呂を済ませている俺はちょっとした感動すら覚える。
 迷子になりそうになりながらもどうにか元いた部屋に戻って、俺は真っ先に頭を下げた。
「あの……風呂、ありがとう」
「はい、おかえりなさい。これ麦茶ですけど飲めます?」
「ど、どうも……」
 至れり尽くせりはまだ続くらしい。俺、もしかして前世でこいつに大きな恩でも売ったのだろうか。そうとしか思えないくらいによくしてもらっている。
「あのさー……俺、あんたに会ったことあるっけ? 初対面だよね?」
「初対面ですね。あなたのような年上の知り合いはいません」
「あ、やっぱ年下……え、高校生くらいだよな? 学校は?」
「今日は事情が事情なので休みました」
「えっ俺のせいじゃん!? ごめん!」
「最終的にはおれが決めたことですから。それに、土曜は部活だけなので」
 お気になさらず、と俺の謝罪を軽く流して、そいつは「大丈夫そうでよかったです」と改めて言った。穏やかな笑顔だけど、下がり気味の眉だから少しだけ困った風にも見える。
「やー、ごめんね迷惑かけて。酒は並みよりは強い方なんだけどついうっかり」
「倒れるほど飲むのはやめた方がいいんじゃないですか」
「仕事柄しゃーないっつーか、不可抗力っつーか……まあでも、次は意識飛ぶ前にタクシー呼ぶからへーきへーき」
 手渡されたコップを空にして立ち上がる。あまり長居もしていられない。
「飲み物ありがとう。タクシー呼びたいんだけど、この家の前につけていい?」
「どうぞ。中まで入ってもらいましょうか」
「え、車入るスペースあんの……すげーな……」
 生粋の金持ちの暮らしはまったく分からん。と、そんなことを考えている間にそいつはさっさと携帯を出してタクシーを呼んでしまった。よく考えたら俺ここの住所分かんねえから一人じゃタクシーも呼べないじゃん。またひとつ余計な手間をかけさせてしまった。
「なあ、ほんとありがとね。えーと……」
 名前が分からない。するとそいつは俺が僅かに言いよどんだことから用件を察してくれたのか、「津軽です。津軽万里」と静かに笑う。
「ばんり……え、万札の万に山里の里? マリちゃんじゃん」
「……よく間違われます」
「はは。ありがとマリちゃん! 俺はねー、セツって呼んで。あとこれ名刺ね」
 財布から名刺を一枚出して手渡す。そこには俺が働いているクラブの名前と住所が記載されている。「これ見せて俺の名前出してくれたら、初回はタダ飲みしていーよ。なんでも頼んでよ。今日の御礼」にこっと営業スマイルしてみたが、渋い表情をされてしまう。
「おれ、高校生なんですが……」
「えっ嘘! 高校生なのに酒も煙草もやらねーの!? まっじめー!」
「真面目とかそういう問題じゃないです」
「ハイ……」
 やばい、怒られてしまった。俺の弟とかマリちゃんと同い年くらいだけどガンガン飲むよ、もう止める気も起きねーくらい。煙草だって吸うよ。おまけにセッタ。
「え、えと、そしたら昼のイベントとか、興味あったら……友達とかと……」
「あはは、なんでそんなに必死なんですか」
 貰いっぱなしは嫌だからだよ。借りを作りたくないんだよ俺は。
 とは、流石に言えず。
「まあ、ご厚意だけ受け取っておきます。――あ、タクシー来ましたよ。気を付けて帰ってください」
 こうして俺は、最後の最後まで世話になりっぱなしのまま、その古き良き日本家屋から笑顔で送り出された。

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