羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 金曜の夜はやっぱりどこか気分が高揚する。週末ということで街にも活気があるし、残業で疲れたはずの体もなんとなく元気だ。
 帰宅して夕飯を食べてゆっくり風呂に入ったら、クーラーの効いた室内でほっと一息つく。時刻は二十一時過ぎ。これなら寝るまでの間ゆっくりできるし、久々に映画でも観るか、読書でもいいかもしれない……なんて思っていると、スマホがメッセージの受信を告げた。三浦さんかな? と一瞬考えて、差出人を確認して驚いた。キイチさんだ。
『もしかしてミナト気付いてなかったら勿体ないから教えとく!』
 そんな一言と共に送られてきたアドレス。どうやら動画サイト……っぽい。頭の中は疑問符だらけだったけれど、とりあえずキイチさんが送ってきてくれたやつだし文面的にアカウント乗っ取られてるわけでもなさそうだし、深くは考えずにそのアドレスをタップする。
『――あー、あー、これほんと聞こえてる? 聞こえてたらコメントで教えてほし……や、聞こえてないときの方がむしろ教えてほしいんだけど。っつーかせめて告知しとけばよかった……思いついたからすぐ始めちゃった……人全然こなかったらどうしようね』
 ――そしたら、スマホから三浦さんの声が聞こえてきてびっくりしてスマホを落としそうになった。
『マジで突発すぎてたぶんおれの作った曲しかリクエスト応えられないんだけど、それでもよければコメントしてください。次があれば事前にリクエスト募集しようかなー』
 よく分からないままに小物入れをひっくり返してスマホ用のイヤホンを装着する。どうやらこれは今まさに行われている生配信のようで、三浦さんが自宅から動画配信しているらしい。動画とは言っても顔出しはしていなくて、シンプルすぎる淡いブルーグレーの背景に『弾いて歌うよ』とだけタイトルがついている。
 俺は慌ててキイチさんにお礼のメッセージを送る。配信はバックグラウンドで流しっぱなしにして。
『教えてくれてありがとう、っていうか何これ!? 知らないんだけど!』
『あ、やっぱり? マジで急だよ、五分前くらいに突然URL呟いてて。オレらは全員あいつのアカウントフォローしてるけど、そういやミナトはアカウントなかったなーって思ったから』
 キイチさん……! ありがとう……! というか三浦さんは教えてくれたってよかったんじゃない? だめ? まあ急な思いつきでそのまま始めたってだけで深い意味はないんだろうけど……。
 前から思ってたけど、キイチさんってめちゃくちゃ面倒見いい。俺がアカウント持ってないのを察してこういうことをさらっとやってくれるし、かなり気の利くタイプの人なんだと思う。どうやら他のバンドメンバー……タキさんとイノさんも配信を視聴中らしい。
 生配信に喜べばいいのか情報を取り逃していたことにもやもやすればいいのか分からなくなっていたのだが、いい機会なのでそのSNSのアカウントを取得してみる。名前もIDも初期設定で出てきたやつそのままで、ひとまず三浦さんが動画投稿のお知らせで使っているらしいアカウントをフォローした。十分ほど前に、『ギター弾きます』というあっさりすぎる一言とURLを投稿しているのが分かる。
 そんなことをしている間に生配信の方はすっかり人も増えているらしく、三浦さんは『ちょっ待って待ってコメント流れるの速くない? うわ同接すご、まだ何もしてないんだけど……』と本題に入る前から大賑わいだ。
 キイチさんがさらりと教えてくれたことには、どうやらこれまで長らく鎖国状態を続けてきた三浦さんが突然存在を主張してきたのと、同じジャンルの投稿者で有名な人が配信に言及したことで、昔からの三浦さんの曲のファンの人たちを中心に軽くバズっている……とのことだった。よく考えたら、大多数の人たちにとって三浦さんって声すら知らない謎の動画投稿者だもんな。そんな人が急にこんなフランクに喋り始めたらそりゃ騒ぐわ。
 配信中の画面の右側の部分には、配信を観ている人たちのコメントが次々流れてきている。急な配信に対する驚きと、これからは配信も定期的にやるのかな、楽しみ、といった期待。更には、こんな声だったんだ、イケボですね! なんてコメントもあった。たぶん三浦さん大体のコメント見逃してるっぽいけど。
『一曲目どうしよっかな。たぶん一番知ってる人多いやつにしとく? あんまぐだぐだ喋って引っ張るのも聞いてる人ダルいだろうし始めまーす』
 そんな緩すぎる発言と共にギターの音が響いて、心の準備をする暇もなく曲が始まった。それはいつかのライブで聴かせてもらった、三浦さんの投稿した動画の中で一番再生数の多い曲だ。あのときはバンドの生演奏つきだったけど今日はギターだけだからかなり雰囲気が違って聞こえる。というか、三浦さんちょっと歌い方変えてるな。器用だし相変わらず歌が上手すぎる。
 俺は、視界の端で流れていくコメントをいくつかピックアップした。『歌うま!』『この流れでCD出してくんないかな』『は? 上手すぎて笑う』『歌もだけど地味にギターもめちゃくちゃ上手いなこれ』……なるほど、おおむね予想できた反応だ。
 三浦さんは曲の一番を歌い終わると少しギターの音量を落として、『おれ好き勝手弾き語りしてるだけなんだけどこれみんな楽しい? 楽しかったらいいな』なんて笑い混じりに喋っている。その間も演奏は止まらない。かと思えば、いつの間にか弾いていた曲が自然に別の曲へと変化していて驚いた。三浦さんはそんな俺の驚きなんて置き去りに次の曲を歌い始める。コメント欄が驚き一色に染まっているのが、俺のこの反応が特殊ではないのだということを唯一教えてくれた。
 コメントが川のように右から左へと押し流されていく。人々の熱が伝わってくる。
 もしも三浦さんがバンド活動を続けていたら、ひょっとするとスカウトされちゃったりしてプロになって、テレビの向こうで歌ってたりしただろうか。プログラミングが一番好きとは言っていたけれど、それは歌手活動をしない理由にはならないし。兼業の人だって世の中にはたくさんいる。それで俺は三浦さんに会うこともなく、今の関係になることもなく――なんてパターンもあったのかもしれない。
 けれどそうはならなかった。悲しい思い出を含んだその事実を単純に『よかった』だなんて言うことはできないけれど、俺はやっぱり、色々な偶然が積み重なって三浦さんに会えたことが、なんだか奇跡みたいに思えるのだ。
 小さなスマホの画面の向こうでは、おそらく即興の自作曲メドレーをきりのいいところまで歌い切った三浦さんの息遣いやギターをいじる音がしている。
 コメントの洪水が若干落ち着くまで続いた無言の時間は、三浦さんのやわらかな声によって終わった。
『えっと……聴いてくれてありがとうございます。いやまだ全然終わりじゃないけど、とりあえず言いたいことがあって……』
『なんで今日急に配信したかっていうのは、んっと、おれ今までずっとコメントとか全然反応できてなくて……たくさんの人がおれの曲聴いてくれてるのに、何もお礼できてないなって思って』
『ほんとはずっとこうやってコメント返したりとかしたかったんだけど、ちょっと、まあ、交流があんまり得意じゃなくて』
『最近、気持ちに余裕出てきたというか。色々吹っ切れられたので、まずは今までおれの曲聴いてくれてた人たちにお礼言いたかったの。いつも聴いてくれてありがとうございます』
 ぽつりぽつりとゆるやかに言葉が紡がれる。聞こえるのは三浦さんの声だけだけれど動画上には大量のレスポンスがいくつも表示されていて賑やかだった。生きた人間の反応がそこにはあった。
『これからもいい曲作ると思うんで、聴いてくれると嬉しいです』
 三浦さんはそう結んで、そこから一時間ほどを休み休み歌い続けた。好きに歌って好きに弾いて、見えないのにとても楽しそうなのが分かる。終盤、『うわーテンション上がってきた、次覚えてたらピアノも弾こ』なんて言ってオーディエンスを沸かせていた。こうして三浦さんのやりたいことがどんどん増えていくのが嬉しい。
 けれどやっぱり、俺ではない誰かに話しかけている声だけじゃなくて、ちゃんと俺に向けられた声が聴きたいな……と。
 そんな我儘を胸の内に抱えつつ、俺はトークアプリを起動したのだった。

『――もしもし? 兎束さん?』
「ごめんね急に電話しちゃって。今大丈夫だった?」
『大丈夫ですよ。実はね、さっきまでネットで歌配信してて。だからちょっとテンションおかしいかも』
 聴いてたよ、と伝えると、三浦さんはちょっとだけ驚いた後大げさに思えるくらい喜んだ。そんなに喜んでくれるならなおさら教えておいてくれればよかったのにとちょっぴり思ったのでそれも伝えてみると、照れ混じりらしい声が耳元で聞こえる。
『んー……あの、今からかなりクソなこと言っちゃうんですけど』
「え? うん」
『こういうのって、何も言わなくても見つけてもらえるのが嬉しいみたいなとこあるんですよね。だから告知なしでやっちゃうのかも』
 おれのこと見つけてくれてありがとう、と三浦さんが小さく囁く。
 キイチさんにカンニングさせてもらったことは次に会うときまで秘密にしようと思った。そのくらいのズルはしちゃってもいいかな、と自分を許した。
 代わりに、俺はさっきからずっと思っていたことを口にする。
「三浦さんの気持ち分かったかも」
『何がですか?』
「声聞いたら会いたくなっちゃった」
 まだ俺と三浦さんの関係がただの同僚だった頃、三浦さんに言われたことを思い出したのだ。配信中の三浦さんがとても楽しそうだったからこそ、ああ今きっとすごくいい笑顔なんだろうな、なんで俺はそれを見られないんだろう、と自然にそんな気持ちが湧いた。
 俺じゃない大勢に話しかけている声を聴いて寂しくなって、電話までかけたのに今度は直接会いたい気持ちが抑えられない。
 はやく月曜になればいいのにねなんて呟いてみる。ほんの少しだけ期待を込めて。そしたら優しい三浦さんは、また俺が調子に乗ってしまいそうな絶妙にずるい台詞をさらりと言う。
『兎束さんのためなら土日も空けますよ。それとも今から行こうか? 途中で終電過ぎるから片道になっちゃいますけど』
 行くなら泊まる、という宣言。どこまでも俺を甘やかす、魅力的すぎる提案だった。
 はたしてこのまま受け入れていいのだろうかと一瞬だけ迷う。けれどきっと、三浦さんからこの提案を受けた時点で結果は決まっていたのだ。
「帰す気ないから、急いで来てよ。駅まで迎えに行ってもいい?」
 だってたぶん三浦さんも少しくらいは、俺の声を聞いて“会いたい”って思ってくれたんだろうから。

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