羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 会社で使うPCは月一くらいのペースでアップデートがかかる。アップデート内容は全部情シスで管理されていて、俺たちはただ画面の表示に従ってボタンを押していくだけだ。再起動しておしまい。大体そんな感じ。何も難しいことはない。
 けれど、やっぱり色々なことが原因でそれが上手くいかないこともあって。そんなときは、三浦さんが全部対応している。文字通り全部だ。
 今日は特に大変な日らしい。先ほどから、社内で使っているメッセージアプリの通知音が鳴り止まない。たぶん、通常のアップデートとは別にアンチウイルスソフトのアップデートもあったからだとは思うんだけど……。
『すみません、ウイルス対策ソフトのインストールが終わらないのですが』
『アップデート後に再起動したらWifiが繋がらなくなりました。どうすればいいでしょうか?』
『インストール途中で突然画面が消えてしまい、再起動するとまたインストールを促されるのを何度もループしてます。レジストリやインストールフォルダに該当のプログラムが見つかりません』
『何度再起動しても画面がフリーズするのですが……』
 阿鼻叫喚の投稿で賑わっているのは、情シス――まあ要するに三浦さん――直通のヘルプチャンネルだ。メッセージアプリには個人的なメッセージを送り合う機能とは別に、チャンネルを作ってグループトークができる機能もついている。三浦さんが入社してまだそんなに経っていなかった頃、『全体公開のヘルプチャンネルを作ったので、情シス宛の質問はこちらにお願いします』と全社共通のチャンネルに投稿された文章が、そういえば彼の業務上の第一声だった。
 なんだったかな。『基本的にこういうのはオープンコミュニケーションにしてください』みたいなことを言ってた……気がする。あれだ、三浦さんが個別でDMに返信すると負担が大きすぎるし、同じ対処法を個別に何人にも送らなきゃいけなくなるかもしれないから手間ってことなんだと思う。開かれた場所での発言なら不具合の前例を検索して各々対処できたりするかもしれない。ノウハウも自然と積み上がっていく。そちらの方が断然効率もいい。
 とはいえ、流石に今日はそれでも対応が大変そうだ。お昼一緒にどうかなって思ったんだけど今メッセ送っても通知邪魔になりそうだし、昼休みになったら直接誘うことにしよう。

「――既に一日分疲れてるんですけど……」
「はは……お疲れ、三浦さん」
 三浦さんの希望で、ちょっと価格帯高めで椅子が柔らかい半個室のお店にやってきた。食事を終えた彼は言葉の通りぐったりと椅子に深く腰掛けていて、眼鏡を外して目頭の辺りをぐりぐり押さえている。
「あー……トラブル起こったときの投稿テンプレとか作るべきかも……みんな案外情報整理せずに投げてきますよね色々」
「テンプレあるのいいかもね。必要な情報が何かも分からない人多いと思うから」
「営業さんの前でこんなこと言うのもなんですけど、せめて再起動くらいは試してから質問してこいよって人割といません? そっちの部署。マシン名くらいは最初から質問文に添えておいてほしい……というか質問文はマシン名とセットにしろって何度も言ってる気がするんですけど」
「うっ……正直そこらへんは俺も人のこと言えないというか……!」
 ネット通じなくなって慌てて三浦さんの席まで特攻しちゃったし。
 開発部の人たちはまだマシなんですけどね……と言いつつオレンジジュースを飲んでいる三浦さん。昼休み早々ご飯に誘いに行ったときも、彼は自身がそれなりの手間をかけて作ったトラブルシューティング用の手順メモを『ちょっと私には内容が難しくて』の一言で突っぱねられイラついていた様子だった。相手の人、いかにも個別対応しろって感じの雰囲気文面に出してたもんな……。
 んー……まあ、詳しくない人にとっては本当に何から何まで分からない内容だろうっていうのは思うけど。丸投げはだめだろ、やっぱ。
 恋人びいきかもしれないが、三浦さんの文章はかなり分かりやすい。きっと三浦さんだったら説明するまでもなく分かるんだろうなって部分も変に端折ったりしないし、丁寧だ。だから、レジストリだのDNSサーバーだの何だの耳慣れない単語が多くてもちゃんと読めばスムーズに作業できるようになっている。そういう、たぶん三浦さんが気を遣ってるんだろうな、って部分を蔑ろにされているのを見るのは、俺も悲しい。
「まあ、要領得ない話延々と聞くよりはおれがリモートで直接操作した方が早いっちゃ早いんですけどね。一応過去ログ漁るくらいは最低限してほしいなって」
「すぐ上にあるスレッドと同じ質問しちゃう人たまにいるもんね」
「それ! ほんとにそれ……何のためのオープンチャンネルなんだか」
 そこまで言ってから、三浦さんは何かに気付いたみたいにぱっと姿勢と正した。そして、「……スミマセン。愚痴っぽくなっちゃった」と気まずそうに視線を彷徨わせる。
「俺でよければいつでも愚痴聞くよ。三浦さんただでさえ一人部署でそういうの人と共有しにくいだろうし」
「えー……おれ、兎束さんとはなるべく楽しいことだけがいいです」
「そう? 俺はさ、しんどいこととかも教えてもらえるの嬉しいなって思うよ。信頼されてる気がするから」
 なんかこれ付き合う前も似たような話した記憶あるんだけど。思わず笑みがこぼれて、三浦さんもつられたみたいに笑顔になってくれた。それならちょっと付き合ってほしいんですけど、と言われて俺はすぐさま頷く。まだ時間には少し余裕があるから、そのくらいのお願いはなんてことない。
 どこに行くのかなと思っていたらさっさとオフィスに戻ってきてしまって、三浦さんは内心首を傾げる俺を促し、裏口側のエレベーターホールへと足を進める。なんか、会社で二人きりになりたいときっていつもここに来てる気がするな。
 重たい扉が閉まるのを確認して、期待八割くらいで三浦さんのアクションを待った。すると、彼は俯いて、俺の手に触れながら小さく呟く。
「……、……ちょっと、今日はいつもよりつかれました」
 み、三浦さんが弱ってる〜……! 可愛い……!
 ものすごく失礼な話なんだけど、でも、自分の心に嘘はつけない。俺は胸を高鳴らせながら三浦さんのふわふわの髪をそっと撫でた。
「んうー……兎束さん、ちょっとだけぎゅってしていい? 癒されたいです」
「えっ、どうぞどうぞ! 俺でよければ!」
「兎束さんにしかこんなこと言わないですよ」
 笑い混じりにそう言われて、俺はたまらない気持ちになって三浦さんを自分から迎えに行った。背中に腕を回して、ぎゅ、と抱き締める。細くて心配になる体だ。細いし薄い。この体のどこからあんなにハリのある歌声が出てくるのか、謎は深まるばかりだ。肺が大きいのかな?
 三浦さんは俺の肩に顎を載せて、ふー……とゆっくり息を吐いた。薄いと思っていた体が更に薄くなっていってはらはらする。お腹と背中がぺたんこにくっついちゃうんじゃないかな、とか思ってしまう。さっきご飯食べたばっかりなのに。
 何分そうしていたのか、きっとカップラーメンも出来上がらないくらいの時間だったと思う。けれど三浦さんは腕の力を緩めて柔らかく相好を崩した。
「……元気になりました」
「ほんと?」
「ほんとですよ。午後はいい気分で仕事できそうです」
 三浦さん機嫌悪いの顔に出るからなあ、と苦笑い。そういえば、猫被ってるときも理不尽な要求にははっきり抗議する人だったっけ。なぜか三浦さんにコピー機の使い方を聞こうとする人が後を絶たないのだ。『あまりにも聞かれまくるから操作方法詳しくなっちゃって最悪です』って言ってたことがある。文句言いつつもやってあげちゃうから次も聞かれるんじゃないかな……。
「……三浦さん今日って残業する?」
「残業ですか? 別に今日はそこまで……八時前くらいには帰る予定です」
「あ、一時期に比べてかなり減ったね」
「そうですね、おれ一人なんでかなり好き勝手やらせてもらったっていうか。サバ管もかなり楽になりましたし……最近は在宅勤務への切替対応がやばかったけどそれも落ち着いてきました」
 なるほど、これまでの過重労働は最初の環境を整えるためだった、というのもあるのだろう。となると、有休とかも取りやすくなるかな。いつか一緒に旅行にでも行きたい。
 そんな妄想をして俺ははっと我に返る。危ない、もうすぐ昼休み終わっちゃう。早く言わなきゃ。
「あのさ、もしよかったら今日三浦さんの家遊びに行ってもいい? 俺残業ないし、夕飯作って待ってるよ」
「えっ」
「今日特にお疲れみたいだから、ほら、家でゆっくりすれば疲れもとれるかな……とか……もちろんそんな遅くまではいるつもりないし! 一緒に夕飯食べられたら嬉しいけど、それ終わったらすぐ帰るから……」
 なんだか言い訳みたいになってしまって焦る。分かりやすく翻訳すると一緒にいたいってだけなんだけど、心配してるのは確かだからこのくらいのオブラートは許されるはずだ。
 三浦さんの睫毛がぱちぱちと瞬くのを緊張しつつ見守る。唇からこぼれ落ちたのは、疑う余地なんてひとつもないくらい、俺への好意を隠さない声。
「……すぐ帰っちゃうの?」
 まるで甘えるみたいに指先に触れてくるから、体の芯が痺れるみたいな不思議な感覚がした。
「三浦さんが――いてもいいって言ってくれるなら、いるよ」
「じゃあいてほしいです。どうしよ、今日の残業明日に回せる分は持ち越しちゃおうかな。せっかくだし一緒に帰りません?」
 目に見えて機嫌がよくなった三浦さんに頷いて、もしかしたら泊まることになったりするかな……なんて思う。これも期待八割くらいで。まさか俺がこんな、自分にとって都合のいい未来を想定して心躍らせるようになるなんて。どうやら恋は人を変えるらしい。……三浦さんに、人を変えるパワーがあるのかも。
 いよいよ時間がないので「じゃあまた定時後にね」と最後にもう一度目の前の体を抱き締めた。キスは我慢だ。まだ我慢。
 だって、帰ってからたっぷりできる。

 何食わぬ顔でオフィスへと戻る途中、隣を歩く三浦さんのポケットから通知音がした。会社で使っているメッセージアプリのものだ。きっと、昼休みが終わるのを待てずに三浦さんに質問をしてきた人がいたのだろう。ひょっとすると、気付かなかっただけで食事中も鳴っていたりしたのかもしれない。
「通知何件溜まってるか怖いですけど、兎束さんのお陰で午後の仕事乗り切れそう」
 甘い笑顔でそんなことを言う三浦さん。早くこの人を独り占めしたい。一緒に帰って、たくさんくっついて、キスして、好きって伝えたい。
 ――ああ、もう。やっぱり社内恋愛なんてろくなもんじゃない。
 こんなに近いのに我慢しなきゃいけないなんて。おまけに、それが焦らされてるみたいで案外悪くないとか思っちゃうなんて!
 俺は必死で平静を装いつつ足を動かす。どうか、三浦さんの今日の分の残業がさっさと片付けばいい。そしてあの甘い声が俺を呼ぶのを、彼の隣の特等席で聴くのだ。

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