羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 佑護はその日から丸四日経っても登校してこなかった。
 いつもヒートが短めで終わるはずの佑護なのにこんなこと初めてで、本人不在の机の引出しに溜まっていくプリントをじりじりとした気持ちでカウントしていた俺は、いよいよ自分から連絡をとってみることにした。メッセージを送ったらすぐ既読がついて、スマホを操作できるくらいには回復してるんだな、とまずほっとする。
『体調どう?』
『まあまあ。今回ちょっと長引いたけど』
『ならよかった』
 返信に時間がかかるといったこともなくて、確かに体調は悪くなさそうだ。もう金曜だし、週末も安静にしていれば来週からは問題なく登校可能だろう。
 ここで俺は少し悩んだ。一週間分溜まったプリントを、週末に確認しておきたかったりするんじゃないかな? と思ったからだ。宿題だって出ているし、授業が進んだ分のノートの写しも必要だろう。佑護の家は学校から近いから、届けようと思えば届けられる。
 でも、俺が行っていいのかな。
 そんな気持ちが拭えない。もしまた俺がフェロモンにあてられて“おかしく”なって、それで、佑護に酷いことをしてしまったらどうしよう。
 悩んでいると、ぽこん、と短いメッセージを受信する。『宿題出た?』という内容だった。んん、やっぱり気になるよね。
『数Bと古典が出てる。数Bは問題集で、古典はプリント一枚』
『そっか』
 そこから少し間が空く。なんだかお互いに出方を探っているような、試合の駆け引きのときのような不思議な感覚だ。
 やがて、先に場を動かしたのは佑護の方だった。
『あの、もし予定なければ……っつーか余裕があればでいいんだけど、プリント届けてほしくて』
『あ、やっぱり?』
『古典月曜だから、来週登校してからだと間に合うか微妙』
『分かった』
 内心不安はあったけれど、どうしても嬉しく思ってしまったのも事実だ。佑護から頼んでくれたことで、色々なことを許された気がしたから。
 なんかこう、仮に結果が一緒だったとしても、俺が行きたいって言って許可をもらうのと、佑護から望んでもらうのとじゃかなりの違いがある……気がする。気の持ちようがかなり変わる。免罪符、みたいな? なんて言えばいいんだろう。とにかく、俺は今、嬉しく感じてるってことだ。佑護の繊細な部分に少なからず触れてもいいと思ってもらえた。それが嬉しい。
 その場で薬を飲んで、佑護の机のプリントをまとめて鞄に入れてから校門を出る。途中で自分の家に帰るのとは逆方向に道を曲がると、目的地は五分ほどで見えてきた。
『もうすぐ着くよ』
 メッセージを送る。もうすぐっていうか、あと一分もしないうちに家の前だ。ちょっと急ぎすぎたかな、と恥ずかしい。けれど、俺のメッセージにすぐ既読をつけた佑護が、『鍵開いてるから』と返事をしてきたことにあれっ? と思う。
 俺は、玄関口で荷物を手渡したらすぐに帰るつもりでいたのだ。体調は悪くなさそうとはいってもまだ本調子じゃないだろうし、そんなときに気を遣わせるのもなんだかなと思った。薬を飲んだのは、せめて一目だけでも会いたかったから。もちろん、無理そうだったらポストにでもプリントを入れてそのまま帰るつもりでいた。
 でもこの佑護の口ぶりからすると、俺が家に上がっていくことを想定しているような気がする。
『起きるのしんどかった? プリント渡したらすぐ帰るつもりでいたんだけど、気を遣わせちゃってたらごめんね。気にしなくていいんだよ』
 佑護の家の門のすぐ横で立ち止まって長めの返信を打つと、スマホが震えた。着信だ。
「佑護?」
『この後予定あったのか? 悪い』
「え! 全然そんなことないけど。でもほら、お家にお邪魔するのはさ……お母さんとかいるでしょ」
『今日はいない』
 ん? なんか話の流れが予想外の方向に行ってるんだけど。
「い……いないの?」
『うちの親、月一くらいのペースで夫婦だけで食事――デート? する日があるんだよ。俺ももう体調回復してるし、気にせず行ってこいっつった。だから今日は十時過ぎくらいまで帰ってこない』
 あれ、つまり、今佑護は家に一人ってこと?
 そういうことだよね?
 佑護以外誰もいない家に、俺を上げようとしたの?
 それは……それ、大丈夫?
『っつーかお前そろそろ着くんじゃねえの。あ、もう家の前にいるか?』
「あ、あー……傍にはいる、けど。佑護はさ、俺が行くの不安じゃないの?」
 ドアの開く音がする。思わずそちらに視線を向けると、いつも見ているワイシャツと学ランじゃなくて、首回りがゆったりしたトレーナーを着た佑護が外に出てくるところだった。
「お前に来てほしくて――わざわざ口実考えて、宿題のこととか聞いたんだけど」
 こちらを見て、少しだけ不満そうな口調で。佑護はそんな風に言った。普段の佑護だったらまずしないような言葉選びと口調に驚いてしまって内容の理解が遅れる。ぽかんとしてしまった俺に、佑護はまたじれったそうな表情を浮かべた気がした。
「……帰りたい?」
「え!? いやっ、その、ちょっと色々予想外っていうか……?」
 佑護の手が伸びてきて、俺の手首をそっと掴んだ。
 触れた体温が想像したよりもずっとずっと熱かったから、どきっと心臓が跳ねる。そのまま引き寄せられて、甘い匂いに頭がくらくらしてきた。やっぱりこれ、まだ完全にヒート治まったわけじゃないんじゃない? こんな、外に出てきたら危ないよ。
「ゆう、ご」
「俺は……ヒートの間ずっと、お前のこと考えてたしお前に会いたかった、んだけど……」
 ぽつりぽつりと、ちょっとぎこちない佑護の喋り方。視線は全然合わないのにその顔が耳まで真っ赤なことがやけに目に焼き付いてしまって、体の奥が熱くなってくる。気付いたら俺たちは玄関の中に二人して入り込んでいて、佑護がガチャリとドアを施錠した音が嘘みたいに室内に響く。
「……お前が今日、ここにきてくれたこと……都合よく解釈したら、駄目か」
 どうしよう、こんなのキャパオーバーだ。全然処理しきれない。佑護の瞳に涙の膜がうっすら張っていて、それがとっても綺麗だとか、今日はいつもと違ってあのたくさんのピアスを全部外してるみたいだとか、見てるだけじゃ分からなかったけどイメージしていたより腰が細くて頼りなく思えてしまうだとか、今本当に考えなくちゃいけないこととは関係ないことばっかりが頭に浮かぶ。ぎゅう、と目をつむって、ゆっくりと息を吐き出す。
 佑護は、俺に会いたかったの?
 ヒートの間ずっと、俺のこと考えてくれてたの?
 それは――俺が想像してる通りの意味だって思っても、いい?
「……っ俺だって、あの日佑護のこと見つけてからずっと、佑護のことばっかり……だよ」
 声が掠れた。興奮しているのが自分でも分かる。
「信じてもらえるか分からないけどさ、俺、フェロモンにあてられやすいから、そういうので問題起こさないように人一倍気を付けてるんだよ」
 だからあの日は本当にびっくりした。びっくりしたし、怖かった。自分の意思で抑えられない衝動があることが怖かった。
「佑護に初めて会った日、かなり暴走しちゃったじゃん。あんな風になったの初めてだったから、佑護があのことトラウマになったりしてないかなってずっと不安で……」
「え……そう、だったのか? 言ってくれれば……」
「聞くのも怖かったんだよね。それに佑護は仮にトラウマになっててもなってないって言いそうだし」
 確かめるのが怖くて逃げてしまった俺なのに、佑護は「別にトラウマになんかなってないし、……そもそもあのときのこと、嫌じゃなかったし……」とごにょごにょ言いながら必死になって気持ちを伝えてくれる。というか待って、嫌じゃなかったとか言われると照れる。そうだったの? 知らなかった。
「……もしかして、今まで全然手ぇ出してこなかったのってそのせいか」
「えっ、あの、その言い方だとまるで手を出してほしかったみたいに聞こえちゃうよ」
 臆病風に吹かれてついそんなことを言う俺。「『みたい』じゃねえんだよ、馬鹿……」と真っ赤になっている佑護。さっきから心臓はばくばくと休まず全力疾走していて、部活でだってこんな、心臓が張り裂けそうになったことはないのにな、なんて場違いなことを考えてしまう。
「だって、俺は佑護のこと好きだけど、でも、出会いが出会いだったし。ああいう印象ばっかりになっちゃったら嫌で」
「ああいう?」
「なんかこう、フェロモン? 体だけ? みたいなさ。ただ匂いにつられただけじゃないんだよ。確かにきっかけはそれだったかもしれないけど、俺は、佑護とただ一緒にいて喋るだけでもすごく嬉しかった。そういうの、伝わってほしかったんだ……」
 なんだか言い訳みたいに聞こえちゃうかな。聞こえちゃうかも。だってこんな大層なこと言ってるけど、スラックスの前のところが膨らんじゃってるし。体が正直すぎて嫌になる。説得力がなさすぎる。
 たぶん、暁人だったら『ロマンチストすぎ』ってまた呆れたみたいな顔で言ってくるんだと思う。でもさ、少しくらいいいじゃん。本当の意味で運命の番にはなれないんだから、だったらせめて、きらきらした気持ちが俺の心の中にあるんだって思いたいよ。そういう、“佑護じゃなきゃだめな理由”が欲しい。それを運命って呼びたい。
 うだうだ考えている自分が情けなくてちょっと泣きそうになってしまったけれど、そんな俺に急接近してきた佑護が、ぽすりと俺の肩に頭を預けてきたから考え事どころじゃなくなってしまう。
「あー……お前が色々我慢してくれてたっぽいのは、正直、かなり伝わってたけど。……でもそろそろ、俺も我慢できそうにないっつうか」
 性欲込みで好かれてるなら望むところだし、と消え入りそうな声で言われて、思わず抱き締めてしまいそうになる。俺、めちゃくちゃ頑張ってるよね? 我慢できててえらいと思う。
「はっきり言えてなかったから今言うけど、俺も……大牙のこと、好きだ。初めてお前見たときからずっと、お前のことばっかり考えてる……もう一度、あの目で俺のこと、見てほしい」
「あの目……?」
 佑護は顔を上げて、瞳を潤ませながら囁いた。
「――俺のこと、めちゃくちゃにしたいって思ってる……目」
 ふに、と瞼に佑護の唇が触れた。首筋から甘い甘い匂いがして、頭の芯がびりびり痺れる。不安なのかそれとも緊張によるものなのか揺れる瞳を正面から捕まえて見つめると、その体がぶるりと震えたのが伝わってきた。
 ああ、もしかして、今の俺は“そういう”目をしてるかもしれない。
 確かめる勇気はやっぱりなくて、俺はこっそりと内頬を奥歯で噛む。ちゃんと薬は飲んできたはずなのに、そんなの全てひっくり返してしまいそうなくらい、甘い匂いが辺りに滴っていた。

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