羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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※「オメガバース」という特殊設定を用いた話です。
 苦手な方や意味をご存じでない方はご注意ください。


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 運命って響き、ロマンチックでちょっと憧れてた。
「大牙、今日の夕飯俺の家でいい?」
「オッケー。ゆきちゃんまだ具合悪い感じ?」
「いやもうほぼ全快。若干甘いけど」
 暁人のお兄さん、ゆきちゃんはΩだ。俺が物心つく頃には診断結果が出て、そういえばあのときだけは、暁人の家族四人がちゃんと揃ってたな、ということをふと思い出した。
 ゆきちゃんが自分のΩ性について物凄く嫌がっていることは知ってる。でも、βな俺は、運命っていういかにも甘そうな響きをいいなって思うことがあった。
 だって世の中に溢れる恋や愛の物語は大体がαとΩのものだ。壮大で劇的で、思わずうっとりするような描かれ方をしている。俺が目にするものがハッピーエンドのものばかりだからかもしれないけど、だって、やっぱり最後はハッピーで終わりたいじゃん。
 別にαがよかったとかΩがよかったとか、そういう不満があるわけじゃないんだけど。だって俺、平凡だし。ちょっと人より剣道を長く続けてて、人より体がよく動くだけ。
 でも、ぼんやりとした“なんだかなぁ”という気分が付きまとっている。
 それは俺の体質に原因があって、割と、結構、困ることだ。
「……暁人で『若干甘い』くらいだと俺にはちょっときついかも。行って大丈夫かなぁ」
「あー、たぶんほぼ残り香だと思うから先に換気するわ。悪いけどコンビニとかで適当に時間潰してくんね? 終わったら連絡するから」
「分かった。ごめんね、ありがとう」
「なんっでお前が謝ってんだよバカ。意味分かんねーから」
 俺の幼馴染の暁人は、生まれつきΩのフェロモンへの耐性が高いらしい。これは完全に個人差で、平均的なβだったら耐えられないようなヒート中のΩのフェロモンも、暁人なら薬を服用してマスクをつければ大丈夫。現に暁人は、Ωのゆきちゃんと同じ家で問題なく生活ができているし、ヒート中のゆきちゃんのお世話をしているのも暁人。
 そういうのもあって、暁人はうっかり学校で動けなくなったΩを助けてあげたりすることが多いし、養護教諭の先生に頼りにされている。本人は『人助けとかガラじゃねーんだわ。いい人みたいに言われるのサムすぎ』なんて嫌がっているけれど、やっぱり少なからずゆきちゃんを思い出すのか、Ωの人たちに対して比較的優しい。
 一方で俺はというと――逆に、フェロモンに対する耐性がβにしては極端に低い。それこそαと同レベル、って病院で言われたことがある。いやいや、じゃあもういっそのことαにしといてよ、って最初は思った。
 フェロモンを感じやすくてそれなりの距離にいるΩのことも分かるし、匂いで酔ってしまう。俺はまだ未成年だけど、二日酔いってこんな感じの気持ち悪さなのかな、とか想像してる。ヒート中のΩがいたりするともう覿面駄目で、かなり遠くからでも気付いてしまうし頭がぼんやりして体も熱くなってくる。
 暁人がフェロモン耐性高くて匂いを感じにくいのにΩを助けることが多いのは、きっと俺が一緒にいるからっていうのが理由として大きい。ヒート中のΩとか、違う階からでも分かる自信がある。こんな自信は欲しくなかったんだけどさ。
 困ってるΩの居場所が匂いで分かる。でも、俺がそのまま近付いたら性犯罪に直結しちゃいそうじゃん。強制猥褻、準強姦、その先。考えただけで恐ろしい。だから暁人に伝えて、俺の代わりに行って、ってお願いする。そしたら暁人は、しぶしぶ……って態度を装いつつ、困っているであろう誰かのもとへ向かってくれる。
 そういえば、万里のお兄さんもフェロモン耐性低いって言ってたかも? あの人はαで、その中でもかなりαの形質が強く出ているタイプらしい。万里もαだけどお兄さんほどではない……とか。どうやって対処してるんだろう。αの中でも特に耐性低いなら、俺なんかよりずっとずっと大変そうだ。
 俺はそっとため息をつく。悩んだって仕方ないこと。この体質は、これから長く付き合っていかなきゃならないこと。花粉症みたいなものだ。
 まだこの体質がきちんと分かっていなかった頃、暁人の家に遊びに行ったときにちょうどゆきちゃんがヒート中だったらしくて、玄関を開けた瞬間匂いにあてられてそのままぶっ倒れたことがある。
 あのときは、昔からよく知ってる幼馴染のお兄さんの匂いに興奮したらしい自分が信じられなかったし、申し訳なくて、苦しくて、しばらく暁人とも喋れなかった。“そういう行為”の加害者になる可能性ばっかりα並みで能力値はβとか、本当についてない。αのデメリットだけ貰っちゃった感じだ。
 でも最近は医療も発展してるし、俺に合う薬もちゃんとある。フェロモンを感じる受容体の働きを鈍らせる薬。これを飲むことで俺は、誰も傷付けず生きていける。人混みに出るときは必ずこれを服用しているし、鞄の中にも入れている。

 その日は夕方くらいから微妙に体が怠くて、珍しいな、って思ってた。部活があるのにどうしよう、とも。放課後までに治ってればいいなというささやかな願いも虚しく微妙な体調のまま放課後だ。鞄を持って教室を出て、剣道場へと続く渡り廊下に足を踏み入れた瞬間、考えるよりも先に体が反応した。
 ――甘い匂いだ。
 あっやばい誰か呼んでこなきゃ、と真っ先に思った。この粘度の高い湿ったような匂いを間違えるわけない。Ωがいる。そしてたぶん、一人じゃどうにもならなくて困ってる。
 校内でこんな匂いするのって珍しいけど、大抵は抑制剤飲み忘れたとか予定より早くヒートが始まったとかそういうやつ。そして大体の場合、助けを求めることを躊躇してる。この学校はαもβもΩもごちゃまぜに在籍してるから、もしうっかり近くにいるのがαだったら? って心理的にブレーキがかかるみたいだ。
 つらいだろうし、早く助けを呼ばないと――と思って、違和感。匂いが強くなっている。なんでだろう、と思って、匂いが強くなっているというよりは俺が匂いの発生源に近付いていっているんだ、ということに気が付いた。
 無意識だった。
 本能的に、まずい、と思った。早く誰かを呼ばないといけない気がする。誰かを呼ぶ、というか、俺を止めてもらわなきゃいけない気がする。
 そうこうしている間にも匂いの発生源を探ろうとする自分に混乱した。頭がぼんやりしてきて汗が滲む。こんなに匂いがしてるのに、すれ違う人たちは平然とした顔で歩いていて、本当に俺だけおかしくなってしまったんじゃないかと思った。
 どうしよう。万里がいてくれたらよかった。そしたら、俺がおかしいのかどうか分かっていたかもしれないのに。
 混乱したままどんどん歩いて辿り着いたのは、部室棟の横にぽつんと建っているシャワー室だった。この学校は運動部がかなり盛んだからこういう設備も用意されていたりするんだけど、もちろん放課後すぐにここを使おうとする奴なんてそうそういない。
 思考と体がばらばらになったみたいだった。早く誰か呼ばないと、助けないと、と思っているのに、スマホが手に滲む汗でなかなかロック解除できない。そんなことをしている間に、俺の体は勝手にシャワー室に押し入ろうとする。
 キイ、というドアの金具の擦れる音が、やけに耳についた。
 シャワー室、ドアから一番遠い壁。座り込んでいたのは、同じ学年の色の上履きを履いた男子生徒だった。女子ではないことに少しだけ安心したのに、そんなのは気休めでしかなかったのだと次の瞬間思い知らされる。
 ――手が震える。体が熱い。この甘い匂いにもっと近付きたい。
 目の前の彼はきっと俺より随分と背が高いのに、身じろぎすら難しいのか荒い呼吸をするばかりだ。
 じっとりとシャツが汗で濡れている。汗からも甘い匂いがする気がする。というか、もう、そこらじゅう匂いが充満しててどこもかしこも甘い。
 どこから出てる匂いなんだろう、首の近く? 前髪が長くて邪魔に感じて、そっとよけると熱っぽく潤んだ瞳が俺を見た。涙が睫毛にくっついていて、うわ、綺麗な顔だなぁ、なんて思う。唇が濡れている。汗が顎を伝って首筋に流れていく。これ、舐めたらどんな味がする? 噛んだら?
 手からスマホがこぼれ落ちる。
 タイル貼りの床にそれがぶつかる無機質な音が、やけに響いた。
 自分が目の前で苦しむ彼の学ランとシャツをまとめて肌蹴させ、その首筋に噛み付こうとする寸前だということに――ようやく気付く。
 ゴッ、と鈍い音がシャワー室に反響。俺が間一髪、彼の背後にある壁に思い切り額をぶつけた音だった。
「っあー……最悪、最悪、最悪……っもう、ほんとにさいあく……っ!」
 力加減ができなかったのかじんじんと強めに痛む額に少しだけ冷静になれた。その隙にすかさずスマホを拾い、暗証番号を入力して今この状況で一番信頼できる奴に通話を発信する。
『――大牙? どした?』
「暁人っ……部室棟の横のシャワー室に来て! まだ学校いる? というかいなくても来て!」
 いつもだったらこんな命令みたいな言い方したら絶対に怒るのに、暁人は察しがいいから、電話口の向こうですぐに走り出すような気配がする。『――三分で着く。抑制剤はある。耐えろよ』ぶつっ、と通話が途切れた。こういうとき、幼馴染って有難い。他の人じゃきっと通じなかった。暁人が幼馴染でよかった。
 俺の持っている抑制剤はΩじゃ意味がない。ヒート中のΩが使うような薬はお医者さんの処方箋がないと購入できないから、持っている人間はΩ本人やその家族に限られる。
 俺は、震える手で鞄の中から自分の薬を取り出して飲んだ。水もなしにそのまま飲んでしまったけれど緊急事態だ。仕方ない。
 ――大丈夫。暁人が抑制剤持ってきてくれるって言った。三分で着くって言った。大丈夫。あと百八十秒我慢するだけ。いや、もう二十秒くらい経ったんじゃない? 大丈夫。
 自分の吐く息がやけに熱い。低い唸り声は目の前の彼のものではなく俺のもの。分かってる。ちゃんと分かってる。大丈夫。俺の判断力はまだ手遅れにはなってない。
「――っ、ごめん……怖い思い、させたね。もうすぐ、助けてくれる人がくるよ……」
 気力を振り絞って、ようやくそれだけ言った。俯いたまま。顔を上げることはできなかった。少しでも動いたらまたおかしくなりそうだったから。目を瞑ってひたすら湧き上がる熱に耐えて、頭の中で数を数える。あと何秒くらいだろう。五十秒くらい? 四十九、四十八、四十七……。
 残り三十秒まで数えたとき、ぽつりと小さく、ほのかに甘い声がした。
「ぁ……わるい、助、かった。ありがと……」
 かっ、と耳まで熱くなる。お礼なんて言っちゃだめだよ、俺、ひどいことしちゃったのに。こういうときは怒らなきゃだめなのに。
 誰かに怒りたいと思うような気持ちを、ずっと奪われてきたのかなあ。
 俺も彼から奪ったうちの一人になっちゃったのかなあ。
 悔しくて涙がこぼれそうになったところで、シャワー室の扉が無駄に派手に蹴破られる。
「大牙! まだ前科ついてねーな!?」
 分かんない、だいぶアウトかも。暁人の声に安心して振り返ると、マスクできっちり防御した暁人が偉そうな顔でこちらに向かってくるところだった。傍まできた暁人は一瞬だけ「うわっ」て感じの表情をしたから、たぶんこいつでもそれなりに分かる匂いなんだと思う。
 暁人はまず俺の体を地べたに膝を使って押し付けた。うつ伏せの状態で。そのまま俺の上に乗りあげる。判断が速くて助かった。俺は暁人より腕力も体力もあるから、さっさと動きを封じてもらわないと安心できない。
 てきぱきとした手つきでΩの彼の口に薬を含ませ、水で流し込む暁人。どうにか亀みたいに首だけ動かして、彼の喉仏がこくりと上下するのを見届けた。
 ――よかった。今度こそ大丈夫。
 安心したら力が抜けて、気も遠くなってくる。暁人が俺を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、限界だ。俺は、次起きたとき暁人にしこたま怒られる未来を想像しつつ、ゆっくりと意識を手放した。

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