羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 そいつはいつも、教室で本を読んでいる。
 教室の一番窓際、前から二番目の席にそいつはいた。野暮ったい黒髪で黒縁の眼鏡をかけて、小難しそうな本のページを細い指先で繰る。
 そいつの前の席を借りて腰を下ろすと、そいつはレンズの向こうから真っ黒な瞳をこちらに向けて首を傾げた。
「えっ、と……?」
「なあ、何の本読んでんの」
 聞けば、そいつは読書の邪魔をされたにもかかわらず気を悪くした様子もなく、指を栞代わりに本を閉じて人のよさそうな微笑を浮かべる。
「え……ああ、これか。SFなんだけど……高性能な機械に管理された人間社会で、心身共に健康であることが人々の義務っていうか、社会通念になってて、それで……」
「んー、面白い? それ」
「面白いよ。もしかして千種もこういうの興味ある?」
「……あんたが読んでるのなら、興味あるかもねー」
 よく軽薄だと評される笑顔をつくって言葉を紡ぐ。すると、そいつは何が嬉しいのか勢いこんで話を始める。身を乗り出して、真っ黒な瞳をきらきらさせて。この本のどれどれどういうとこが面白いだの何だの、オレにも分かる簡単な言葉を選んで説明してくれている。
 実は、本そのものにはこれっぽっちも興味はない。
 そいつが楽しげに読んでいるから気になったのだ。至福の時ですみたいな表情で目を細めて、時々ページを戻って何度も味わうように丁寧に本を読む。周りがどれだけ騒がしくても馬鹿が馬鹿騒ぎしていても、そいつの周りだけはとても静かで不可侵の領域のように見える。それなのに、オレが声をかけるとすぐに顔をあげてくれる。こっちを見て穏やかに笑う。
 オレは、この本の虫が――美浜のことが好きだった。


 オレみたいにチャラチャラしててどうしようもないろくでなしに限って、美浜みたいな真面目な奴に簡単に落ちるんだよなあ、というのを身を以て体験している。
 美浜は真面目な奴だ。黒縁眼鏡の外見に違わず成績がいい。そのくせ厭味な感じもしなくて、穏やかだった。敢えて悪く言うなら、起伏のないつまんない奴。でもオレは、美浜のそんな穏やかさが好きだった。いつもクラスの喧騒から一歩引いたところにいて、控えめで、静かに本を読んでいて。けれど話しかけられれば必ず本を閉じて返事をする、そんなところが好きだった。
 自分に無いものを人間は求めがちだと言うけれど、確かに美浜はオレの欠けた部分にぴったりと嵌ってくれる存在だ。オレは他人に対してここまで誠実に対応できないし、読書もそんなに好きではない。成績も、お世辞にもいい方とは言えない。寧ろ活字を追いかけていると眠くなってくるタイプ。それでも、美浜が読んでいるならオレも読んでみれば話のタネにはなるかな、と思うくらいには思いを募らせている。重症だ。
 そもそもオレがどうしてこんな似合わない気持ちを抱えているかって、それはほんの少し前の放課後に遡る。実は美浜の名前を知ったのはつい最近で、同じクラスにもかかわらず視界にも入ってこないような奴だった。けれどそれが変わったきっかけはちゃんとある。
 美浜の存在を初めて認識したのは、オレが当時の彼女に二股疑惑をかけられめちゃくちゃに詰られていたときだった。もちろん二股なんてしてない。そんな、後々面倒になることするわけない。それなのに、授業サボって他の女と歩いてるのを見たと言われた。どこのオレだよそれは。っつーかそれ絶対見間違いだけど、お前自分の彼氏も見分けつかねえのか。
 とまあ、一瞬で気持ちがマイナスまで冷めた。放課後の教室で、突然乗り込んできた彼女にぎゃんぎゃん怒鳴られたオレの気持ちを誰か察してほしい。クラスの奴らはそそくさといなくなるし、最悪だった。
 最悪といえばオレの困った性質も最悪で、相手が本気で怒っていれば怒っているほど茶化してしまう。で、余計に怒らせる。直したいのに、あの誰かが怒っているというぴりぴりした雰囲気が苦手でどうしても無理だった。
 その時も、真面目に弁解すればよかったのだろうが相手を無駄にヒートアップさせてしまった。そして頭に響く高い声に、もう面倒だからこの場で振ってしまおうと口を開いたその瞬間、突然声がかけられたのだ。
「千種はそんなことしないと思うよ」
 オレは中途半端に口を開けたまま声の方を向く。自分の中で既に昔の女になったそいつも驚いた顔で同じ方向を見ていた。まだ人がいたなんて、全然気付かなかった。
 声の主は今まさに立ち上がって鞄を肩に掛けるところで、「会話を遮ってごめん」と言ってゆっくり歩く。何も言えずにいるオレたちを気にする様子もなく、扉をくぐる直前に振り返ってまた、静かな声で宥めるように言葉を紡ぐ。
「千種もさ、ちゃんと話せば大丈夫だよ。だってその時間、お前ちゃんと授業出てたんだから」
 最後まで穏やかな表情を崩さずにいたそいつは、最後にふわりと笑ってまたゆっくりと遠ざかっていった。
 オレたちはすっかり毒気を抜かれてしまって、とりあえずその場で円満に……と言っていいのか、別れることができた。「疑って怒鳴ってごめんなさい。千種くんの周りには女の子が多いから、付き合ってるとこれからも不安で居続けることになっちゃうと思う。私には千種くんは勿体なかったみたい」オレとは違ってオレの元カノはこういうことを茶化さずに真剣な顔ができる奴だったらしい。オレには到底真似できないくらいに最後に深く頭を下げて、去っていった。
 オレはしばらく地に足のつかないような気持ちでいたのだが、冷静になると同時にじわじわと、言い様の無い感情が湧き上がってくるのが分かった。
 なんというか、オレはきっと傷付いていたのだろうと思う。身に覚えのないことで疑われて、悲しかったのだろうと思う。だからこそ、名前も知らないような奴にかけられた言葉が嬉しかった。
 その気持ちが固まったのは、次の日の朝、そいつに話しかけられたとき。
「昨日は大丈夫だった? 余計なことしちゃったかな」
 僅かに眉を下げて申し訳なさそうに言うそいつに、オレは「や、あんたのお陰でなんかスムーズに縁切れたわ。っつーかよく他人の出席状況とか覚えてんな」と何の気なしに返したのだが。
「ああ、あれは嘘だよ。いちいち覚えてるわけないって」
「は?」
 そいつはふわふわと笑って、「本読んでたらいつの間にか教室から人がいなくなってるし、怒鳴り声するし、びっくりしたよ」と聞いてもいないことを言う。こいつまさか何の根拠もなくオレを庇ったのか、とその疑問を本人に投げかけてみれば、そいつはなんでもない風にさらりと答えた。
「だって、千種の顔が悲しそうに見えたから」
 それだけ、だった。たったそれだけのことで、ただのクラスメイトであるオレの味方をしてくれた。確証もないのに。「結果的に盗み聞きしたみたいになってごめん」とそいつが続けて言っていたのも碌に聞こえていなかった。
 千種はそんなことしないと思うよ、と、無条件に信じてもらえたのが泣きそうになるくらい心に刺さった。そしてあっさりと、そいつに落ちた。
 だって、そんなことを言ってもらえたのは初めてだったんだ。二股の濡れ衣は頭にきたが、それでも、仕方ないよなと思う気持ちは頭の片隅に確かにあった。浮気しそうな見た目をしているんだろう。自分でもちょっとそう思うし。見た目で判断するなって言っても限度がある。例えば女だって、黒髪で眼鏡でノーメイク膝丈スカートの奴よりも、金髪で睫毛ばしばしメイクにパンツ見えそうなくらい短いスカートの奴の方が遊んでそうに見えるだろう。本性がどうとかじゃなくて、イメージの話。ぱっと見の話。
 オレの髪は淡い金髪だ。ワックスもつけている。チャラチャラとアクセサリーが歩くたびに鳴るし、瞳には薄茶色のカラコンが入ってる。誤解を受けたくないならそもそもそんな外見をやめろという話だが、外見だけで決めつけないでいてくれる奴もいるんだな、ということを知った。
「なあ、名前教えて」
「ん? 美浜和彦。美しい浜辺、和睦の和に彦星の彦」
 絶対忘れない、と思った。名前を説明するのにも単語のチョイスがいちいち綺麗で、クラスメイトなのに名前も知らなかったオレに不愉快な顔をするでもなく答えてくれたのがまた、いいなあと思った。
 その日からずっと、オレは美浜に片想いしている。

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