羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 コンコン、と扉を叩く音がする。
「――ゆみちゃん、」
 誰かの声。まどろみから引き上げられていくような感覚に、まだ寝ていたいという睡眠欲が拮抗する。
 俺が思わず唸ったのと、再度扉が叩かれたのはほぼ同時だった。
「――まゆみちゃん! 違ってたらごめん、今日一限からって言ってなかったっけ?」
 一気に目が覚めて飛び起きた。スマホの時間を確認すると八時半を回っている。あと三十分で準備しないと間に合わない、と脳みそが導き出して、俺は慌てて洗面所に直行する。
「行祓、悪い! 起こしてくれてありがとな、助かった」
 そうやってお礼を言うのは忘れずに。
 昨日は飲み会で帰りが遅くて、正直ちょっと不安だった。酒も入っていたから余計に。こうして不安が的中しているのだから世話が無い。スマホの目覚ましはどうやら俺の気付かないうちに鳴ってそして止まっていたらしい。
 微妙に体が怠いが単純に睡眠不足だろう。今日早めに帰ってゆっくり寝れば治るはずだ。
 顔を洗ってうがいをして部屋に戻って着替えて、鞄の中身をチェック。よし、大丈夫。残り二十分、これなら少し余裕がある。朝食を抜きにするほどではないだろう。
「おはようまゆみちゃん。よかったー、無駄に起こしちゃったら申し訳ないなって思ったんだけどおれの記憶合ってたね」
「おはよう。マジでありがと……今日の一限出席とるやつなんだよ。必修だし」
「昨日も帰り遅かったのに大変だねぇ。そんなまゆみちゃんにはしじみのお味噌汁! 朝ごはん、ちょっとだけでも食べていきなよ」
「ん……そうする。お前今日は休み?」
「午後からでーす」
 きっと一人だけなら味噌汁を作らずに済ませていたのであろうことが分かったので、若干申し訳なく思いつつこれにもお礼を言う。朝からしじみの味噌汁飲めるの、贅沢すぎるだろ。
 副菜までがっつり食べている暇は無さそうだったので、小さなおにぎりと味噌汁だけ用意してもらった。なんと弁当まで用意されている。なんでだよ……お前今日弁当いらないだろ。ありがとうマジで。
 手を合わせておにぎりを頬張ると中にしゃけが入っていた。うまい……。
「それにしても、かっこいい人って寝起きの時点でかっこいいんだね。新たな発見をしちゃいましたよ」
「な、何言ってんだ……」
「朝起きて十分で既にかっこいいの、すごくない?」
 かっこいいか否かはともかく朝起きて普通に一汁三菜作る気力と技量がある方がすげえよ。
 べた褒めされてなんだか顔が熱い。味噌汁のせいではない。自分で言うのもなんだけど、「かっこいい」なんて褒め言葉はそれなりの回数聞いてきた。聞き飽きたなんて傲慢になるほどではないが新鮮な気持ちを持つほどでもない。けれど、なぜだろう。こいつに言われるのはなんだか恥ずかしい。
 あまりにも真っ直ぐ伝わってくるから、だろうか。
 よく分からない。分からないから味噌汁をまた一口飲んで誤魔化した。
 予定よりも五分早く食べ終わったので、これなら走る必要も無いだろうな、とほっとする。歯を磨いて鞄を持って、行祓が玄関まで見送りにきてくれたのをまた気恥ずかしく思いながら「いってきます」と言う。
「いってらっしゃい! あ、まゆみちゃんさ、昨日の昼排水溝の掃除しといてくれたんでしょ? ありがとね!」
 まゆみちゃんが掃除するとほんとにぴかぴかになるよねー、ほんとは昨日のうちにお礼言っておきたかったんだけどまあ誤差ってことで、なんてふにゃふにゃ笑っている行祓にじわりと嬉しくなる。また、顔が熱くなる。
 なんとなく分かった。他の誰に言われても特に響かないのにこいつの言葉なら届くのは、こいつが褒めてくれるのが外見に関することだけじゃないからだ。
 俺が排水溝を掃除したことも、きちんと見つけてくれるからだ。
「……行祓も、ありがと。朝飯と弁当、どっちも……」
「え? いいってそれくらい。おれも同じもの食べるんだし。っていうか大学大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃない……いってきます」
「はーい、いってらっしゃい」
 味噌汁うまかったよ、とどうにかそれだけ伝える。振り返り際にちらっと見えた表情がとても嬉しそうなものだったので、俺はまたよく分からないまま顔を熱くする。
 熱の言い訳をするように、小走りで大学に向かうのだった。

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