羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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『セツさん。えっと、通話スピーカーにできますか? 画面を見ていてほしいです』
「オッケー、ちょっと待ってて……うん。大丈夫。できた」
 途端にスマホの画面がぱっと切り替わる。ビデオ通話の共有がされたらしい。
 てっきりマリちゃんの顔が映るのかと思ったんだけどその予想は外れて、ぼんやりと風景が浮かび上がってくる。
「わ……」
 夜だから景色なんてロクに映らないはずなのに、そこにはしっかりと花が映し出されていた。これは――サルスベリだ。ふわふわの花びらは女の子が着てるスカートの裾みたい。ピンク色をした花に昼間見るような鮮やかさはないけれど、ライトに照らされて柔らかい雰囲気があり、夜ならではの趣があるように思えた。――そう、どうやら、ここはマリちゃんの家の庭で、ここは夜間にはライトアップされるらしい。
「マリちゃんのお家の庭って綺麗だね……これ、ライトどうなってるの?」
『電源の引き込みの工事をしていて、ちゃんと電気が来るようになっているんです。元々離れにも引いていますし……あとは、門の横にも』
 門から玄関までが遠いので、途中に明かりがないと足元が見えなくなってしまって……と苦笑混じりのマリちゃんの声が聞こえてくるけど、要するに庭がめちゃくちゃ広いってことだ。
「こんなに綺麗な花が夜も見られるの、いいね」
『はい。あの……家の庭が夜はこうなっているの、家族以外はあまり知らないんです。来客は多い家ですけど、日中であることが殆どなので。夜に出入りする人がいない日はそもそも明かりも点きませんし』
 じゃあ今日は誰かが出入りする日なのかと思ったら、どうやらマリちゃんが庭の一部だけこっそり明かりを点けたらしい。移動にちょっと時間がかかってたのはそのせいもあるのかな。
「……俺に教えてくれて大丈夫だった?」
 半ば、答えを分かっていて――というか、想像した答えを期待して尋ねる俺はずるい大人なのだろうと思う。
 けれどマリちゃんはそんな俺にも、屈託なく答えてくれる。
『セツさんだから見せたいと思ったんです。おれ、この時間の庭も好きなので……他のひとには、内緒ですよ?』
 恥ずかしそうな、ほんのりと甘い響き。いつもより少しだけ幼い言葉選び。全部が愛しくて、心臓が高鳴る。
 マリちゃんは、自分の宝物を俺に見せてくれて、こんなに嬉しいことまで言ってくれる。
 耳が熱かった。特別だ、とこんなにも伝わってくるのが気恥ずかしくて、でも何度だって体験したい心地だ。
「……マリちゃん、今どんな顔してるの」
『え?』
「マリちゃんがさ、こんなに綺麗なもの、俺にだったら教えてもいいって思ってくれて……わざわざ自分の部屋から出て庭まで歩いて、それで……」
 もしかしたら、俺の反応を楽しみに庭まで歩いてくれたのかもしれない。マリちゃんも、俺がなんて言うかな、とか、どんな顔するかな、とか、想像してくれたのかもしれない。そんなことを思うと、たまらない気持ちになる。
 俺は、画面をタップしてこちら側からもビデオを繋げる。
「ね。俺も今ビデオ繋いだよ。マリちゃんはさ、今の俺、どんな顔してると思う?」
 自分でも声が弾んでいるのが分かる。通話なんで面倒くさかったのに、顔が見たいから映してと言われても適当に断っていたのに、まさか俺が進んでこんなことがしたいと思うなんて。
「――きっと俺、今笑えるくらい顔赤い。マリちゃんはどう? 答え合わせしたいから、マリちゃんの顔も見せてほしいな」
 地面を蹴る音が微かに聞こえた。たんたんたん、という軽快な足音は、やがてマリちゃんの部屋で、止まる。
『あんなにこっそり出てきたのに……早くあなたの顔が見たくて、走って帰ってきてしまいました』
 画面が切り替わって、そこに見えたのは頬を上気させたマリちゃんだった。きっと走ったせいだけではない。「お風呂の後なのに、大丈夫?」『汗を軽く流して寝るので、平気です』俺のちょっと意地悪な質問もマリちゃんは素直に受け止めて、真正面から返事をしてくる。
『答え合わせ、できました?』
「ん……予想以上だったかも」
『差し支えなければ、どんな予想だったんですか?』
「ほっぺたちょっと赤くして、少しだけ眉が下がった感じで笑ってくれてるかなって……予想してたんだけど」
 予想してたよりもずっと表情が甘くて、大好きって気持ちが伝わってきて、俺まで余計に恥ずかしくなっちゃった。そんな風に伝える。
 もうちょっと昔だったら、カメラの性能もそこまでじゃなかったから顔が赤いのも目立たなかったかもしれないのに。ああでも、このマリちゃんがぼんやりしか見えなくなっちゃうのは嫌だな。
『……おれ、あなたに関してはどんどん欲張りになってしまっている気がします』
「どうしたの? いきなり」
『お話してると、会いたいなと思ってしまうので。メールのやりとりだけでも嬉しかったんです、本当に。でも声が聞けると嬉しいですし、顔が見られたら今度は触れたいと思ってしまうんです』
 今あなたを抱き締めることができないのが残念です、と言われた。
 それは下手な告白よりもよほど熱烈な愛の囁きだった。
 俺は内心で白旗を揚げる。だって、連絡するのが迷惑じゃないかとか、わざわざシフトをずらして電話するなんて重いと思われるんじゃないかとか、俺がそんなことをごちゃごちゃ考えてる間に、マリちゃんはとってもシンプルで俺をこんなにも幸せにしてくれる出来事をいくつもくれるのだ。
 広い家を移動してわざわざ花を見せてくれること。
 会いたい、触れたいと言ってくれること。
 俺の気持ちを正面から受け止めてくれること。
 全部嬉しい。もっと早く電話したいって言っておけばよかったと心の底から思えるくらいに。
「……マリちゃん、実はさ。今日シフト早番だったの、偶然じゃなくて……マリちゃんの声聞きたいなって思ったから、なんだよね」
 拙いながらも必死で伝わるように喋る。好きな気持ちが溢れてきそうなのをどうにか押しとどめて。
「声が聞きたかったし顔が見たくて。あの、最初っから正直に言ってればよかった。俺、全然マリちゃんのこと足りなかった……」
 ふー、という長い溜息が聞こえた。もしかして呆れられたかも、って一瞬思う。けれどすかさず、『そんなかわいらしいことを言われると、隣にいられないのがますます惜しいですね』と穏やかな声がスマホから響く。
『あなたにばかり負担をかけてしまってごめんなさい。おれも時間を作りたいです。明日会えませんか?』
「え……」
『ほんとうは今すぐにでも会いたいですが、おれは子供なので』
 冗談めかした口調と甘えるような視線にぞくぞくした。背筋がびりっと痺れる。全部見られているのだと思うと、余計に駄目だった。この子の前ではしっかりしていたいのに、すぐ骨抜きにされてしまう。
「……明日、夕方仕事行く前に会いたい。会える? どこに行けばいい?」
 我ながら必死すぎる声で内心笑ってしまう。少しくらい睡眠時間が短くなっても全然いい。許されるならタクシー拾って今すぐにでも会いに行きたいくらい。でも大人だから我慢するし、大人だけど明後日までは待てない。
『部活をちょっと早めに切り上げます。急いで帰ってくるので……セツさんの職場の最寄り駅で待ち合わせしましょうか』
「あ、ありがとう……嬉しい」
『嬉しいの、あなただけではないんですよ。ふふ』
 知ってるよ。知ってるって言えるのがこんなにも嬉しい。明日が楽しみで仕方ない。
「えっと、じゃあ……待ち合わせの時間、明日の朝くらいにまた連絡していい?」
『明日の朝ですか?』
「うん。流石にもう時間も遅いし、マリちゃんこれからまたお風呂行くでしょ? それに……」
 時間決めるのを口実にして、マリちゃんの声聞きたいから。
 今度は変に誤魔化したりせずに正直に言った。時間が遅いのも、これから風呂に行くであろうマリちゃんを気にしたのも本当だけど、一番の理由は何回だって声が聞きたいから。
 どきどきしながら画面を見つめると、マリちゃんはとっておきみたいな無邪気な笑顔で『分かりました。明日の朝が楽しみです。もちろん放課後も』と言った。
 俺はふと、首に引っ掛けていたタオルをいつの間にかサイドテーブルの上に放り投げていたことに気付く。もしかしたら話している間に体温が上がって、無意識に外していたのかもしれない。髪はまだ少ししっとりしていて、ドライヤーをかけてから俺も寝ようかな、なんて考える。
『じゃあ、おれはそろそろお風呂に行きますね。セツさんも今日はゆっくり休まれてください』
「ありがと。おやすみ、マリちゃん」
『おやすみなさいセツさん。よい夢を』
 名残惜しさを感じつつもぷつりと通話を切ると、画面に表示されていたマリちゃんの顔がぱっと消えて、途端に室内が静かになる。
 ほんの少しの寂しさはあったけれど、明日の朝また連絡してもいいというお墨付きがあるし、なんてったって明日は生のマリちゃんに会えるのだ。
 ひょっとしたらあの温かい手に触れて、人の目の届かないところに行けたなら抱き締めることだってできるかもしれない。
 俺は髪を乾かすために立ち上がる。
 リビングを通るとき、弟の部屋から楽しげな話し声が漏れ聞こえてきた。
 自分の家が楽しい雰囲気で満ちているということに鼻歌でも歌いたくなるくらいのいい気分になって、洗面所を目指し足取り軽く踏み出した。

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