羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 俺の兄貴は弱音を吐かない。というか、弱っているところを俺に見せたがらない……っつった方がいいのかも。他人に対して「そう」なのは弱味を見せたくないからで、俺に対して「そう」なのは心配をかけたくないから。それくらいはちゃんと分かってるけど、あいつの一番ダメなとこは、俺がいつも兄貴より先に兄貴の体調不良に気付いてるっつーのが頭からすっぽ抜けているとこだと思う。
「ただいま」
 帰ってきた兄貴のそんな一言に「おかえり」と返して、俺は内心で、ああこれはまずいかもな……なんて考えていた。
 兄貴は黙ったままソファに座って、じっとスマホのディスプレイを見つめている。特にメールチェックをしているという風でもなく、ただただぼんやりと時間を消費している感じだ。
 こいつがこんな有様になるのは本当に疲れ切っているときで、たぶん今自分が何を見ているかすらロクに頭に入っていない。喋るのも億劫だっつーのもあるんだろうけど、一番は喋るとすぐボロが出るからなんだと思う。実のところ、こいつが「疲れたー!」って言っていられるうちは逆に全然大丈夫だったりするのだ。何も言わなくなったときが本当にダメなとき。静かになるからすぐ分かる。
 クラブのバーテンダーをやってると、やっぱり生活が不規則になる。昼夜逆転なんてのは当たり前に体に悪いし、ストレスもかかるに違いない。特に最近は忙しいみたいで、帰宅時間が後ろにずれ込むことも多い。職業柄仕方ないこととは言え、黙って見ていることしかできないというのも歯痒い話だ。
「なあ、風呂は? 沸いてるけど」
「んー……? んー、もうちょいしたら入るわ。ありがと」
「ぐだぐだしてると入るの面倒になるぞ。早くしろよ」
「わーかってるって」
「分かってねえだろ……」
 ぽろっと口からこぼれた言葉にそいつが僅かにむっとした表情をしたのが分かって、あーミスったな、と思った。疲れてるとイライラしやすいだろうし、余裕もなくなる。このままじゃ喧嘩になりそうだ。
 焦りは表に出さないように、「とにかく、風呂入ってさっさと寝ろよ。おやすみ」と会話を打ち切る。すると兄貴は敢えて食い下がる必要もないと思ったのかそれとも反論する気力もなかったのか、「……おやすみ」とだけ言って深くため息をついた。

 次の日、兄貴が起きてきたのは普段より少しだけ遅かった。どうせ寝る時間も遅かったのだろう。
 それだけならまだいいのだが、見間違いでなければ顔色があまりよくない……ような。こいつは昔から色々と顔に出やすいタイプだから、なんとなく嫌な予感がする。
「兄貴」
「ん? どした?」
「ちょっと顔色悪くね? 寝不足?」
「うわマジ? あー、ここ最近ずっと忙しかったからな……まあ店に行けば暗いし別にへーき」
 そんなことを言いつつ仕事用のスマホをチェックしているそいつに内心でため息が出た。別に客に悟られることを心配してるわけじゃねーっつの。心配なのはお前の体調だよ。店が暗いからなんだっつーんだ。
「なあ、少し休めば」
「は? なんだよ急に。大丈夫だって」
「大丈夫じゃなさそうだから言ってんだっつーの。鏡見ろ」
 割と強めに言うと、「んだよお前昨日から……」とうんざりですみたいな声音で返されて流石の俺もイラッとくる。
「前にも無理して結局ぶっ倒れて寝込んだことあっただろーが。悪化してからだと治るのも遅くなるんだから今のうちに安静にしろっつってんだよ」
「何年前の話してんの? 終わったことねちねちうるせーよ」
 お互いに無駄にイライラしていたのが分かっていたのに、冷静にならなきゃいけなかったのに、うるさいと言われて俺はつい言い返してしまった。「はあ!? お前がぶっ倒れたときに看病すんの俺なんだけど」と。
 言い終わるよりも早く、兄貴の表情が変わったことに気付いてしまった。
 傷付いた、みたいな顔をしていた。怒りの感情はそこには見えなかった。
「……っ」
 いや、もう、言い訳できないくらいの失言だ。体調の悪さを誤魔化して働いてるのも俺の心配を無下にするのも兄貴が悪いと思うけど、そこは譲らねーけど、今のは俺が百パー悪かった。
 別に看病が嫌なわけではない。面倒に思うわけでもない。ただ心配なだけだったのに、今の言い方じゃ、兄貴はそう受け取ってはくれないだろう。
 こいつが体調の悪さを押してまで働くとしたら、その最大の理由はきっと俺なのだということに、思い当たれないわけでもなかった。
 一瞬の気まずい沈黙の後、俺は謝ろうと口を開いた。勿論納得いかない部分はあったけど、自分の悪いところを認められないのはダセェし。
 けれどそれよりも早く、ぼそりと兄貴が何かを呟いたので俺は思わず聞き返した。「は? なんだよ」と。そしたら。
「頼んでねーっつってんだよバーカ! バカ! もう知らねー!!」
 仕事の準備するからどけ! とそいつはぎゃんぎゃん怒鳴って洗面所へと行った。は? こいつ今よりによって『頼んでない』とかほざきやがったか? マジで言ってんのか?
 そこからはもう泥沼だった。やめときゃいいのに「もう勝手にしろ」「言われなくてもする」などと言い争いをヒートアップさせて、「っつーか邪魔なんだよ一人で洗面所占領するなバカ」「順番守れバカ」「家出るの早い人間に譲れや少し考えたら分かるだろバカ」「お前洗面所に水飛び散らせすぎだから後に使うの嫌なんだよバカ」と意味もなく張り合って、朝飯も食わずいつもより一時間も早く家を飛び出したときには精神的にぐったりしてしまっていた。
 あまりにも不毛すぎる。お互いどこかのタイミングで謝っておけばよかったものを……無駄に長引かせるっつー……。
 こんな喧嘩は本当に久しぶりだ。まさか本当にぶっ倒れられても困るのでさっさと解決したいが、兄貴は割と根に持つというか色々引きずるタイプなので下手すると長期戦になるかもしれない。
 思わず大きなため息が出てしまう。その瞬間、「暁人?」と後ろから声をかけられた。
「……あ? 万里じゃん」
「おはよう。どうしたんだ? こんな早くに」
「なんつーか……んー、諸事情っつーか……」
 万里は俺に合わせて歩調を緩めてくれて、いつも通りの穏やかそうな表情で「何か、おれが力になれそうなことはあるかな」とやんわり言う。
 言外に「別に事情を話す必要はない」ってメッセージが伝わってきたので相変わらずだなと思った。きっと、話を聞いてほしいと言えば聞いてくれるだろうし、なんでもないけど何か元気になれそうな話してほしいと言えば頑張って考えてくれるだろう。万里はそういう奴だ。踏み込んでくることはないけれど、こちらが求めれば応えてくれるタイプ。
「……あ。いいこと思いついた」
「ん?」
「なあ、今日の帰り家に寄ってくんね?」
 名案だと思った。俺と兄貴だけじゃ変に意地の張り合いになってまたこじれそうだし、万里みたいにこう、物腰柔らかくて温厚な奴が傍にいると色々上手くいく気がする。
 それに、あいつが無駄にイライラしてんの最近万里と会えてないっつーのもありそうだし。これは俺のささやかな罪滅ぼしとプレゼントである。
「お前の予定がなければでいいんだけど。もし来てくれたら八割くらいの確率で兄貴がいるから」
「いいけれど……八割?」
「うん」
 今日は元々早番で短シフトだから俺らが帰る頃にはいるはずだけど、あいつが俺と顔を合わせるの嫌だとか思ってたりするとどこかで時間を潰してくる可能性もある。だから八割。
 ちなみに万里と出会う前だったら六割くらいだったと思う。つくづく変わったよなあいつ。
「詳しい話は兄貴から聞いて」
「よく分からないけれど、分かったよ。事前にメールで聞くとかはだめなんだろ?」
「さっすが話が分かる! マジであいついなかったらごめんな。次会ったときに殴っといて」
 そんなことしないよ……という呆れたような声音をバックに、俺はポケットからスマホを取り出す。「あ、あと清水も呼んでいい?」「もちろん」そんな会話をしながらお誘いのメッセージを送信した。数分もしないうちに、『おじゃまします』という色よい返事がくる。
 よし、これで準備完了だ。
 万里に何の説明もしなかったのは、俺の話だけ聞かせて判断してもらうのはフェアじゃないと思ったから。
 清水を呼ぶのは、万里と兄貴と俺とで二対一の構図になったら俺があまりにも可哀想すぎるからだ。俺だって味方は欲しい。
 絶対早く帰ってこいよ……と念を飛ばしつつ、兄貴の体調悪化してないといいな、と素直に思った。
 まったく、優しすぎる弟だよな。我ながら。

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