羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 春継のこと。絵が上手くて、何でもそつなくこなせるタイプ。要領がいいから勉強も仕事も得意。物覚えのよさ花丸。運動だけは苦手。でも苦手なことも楽しめる強メンタル。正直言って眩しすぎる。あと、立ち居振る舞いがかっこいい。作法をちゃんと知っている人の生き方をしている。
 時々妙にガキくさいことを言ったりするけど、それすらオレのために計算ずくでやっているふしがある。オレはこいつに、なんだかんだと甘やかされっぱなしだ。
 でも。たまーに、オレの気持ちの落ち込みとか全然関係なく春継がくっついてくることがあって。そういうときは、たぶん春継自身がちょっと落ち込んでたり甘えたかったりするんだと思う。だからオレのできる精一杯で、春継を甘やかす。
「冬眞くん。隣に行ってもいいかい」
「ん? どうぞ」
 ありがとう、と気の抜けたような笑顔でそう言って、ソファに身を沈める春継。普段は立て板に水ですらすら喋るくせに、こういうときは極端に口数が少なくなるから分かりやすい。こいつなら完璧に隠してみせることもできるだろうに、それをしないのはオレに対して気を許してくれているからだろうか……なんて考えて勝手に嬉しくなったりもする。
 オレも無理に話しかけたりはしない。ただ、黙って傍にいて、時折遠慮がちに触れてくる指先に自分の指を絡ませる。大したことはできないけど、これで少しでも春継の気持ちが落ち着けばいいなと思う。
 時計の秒針の音が小さく聞こえる部屋。時間がゆっくりと流れていって、やがて、春継が深く息を吐いたらそれが合図。もう大丈夫、ってこと。本当にもう大丈夫なのかどうかは……春継が口に出して言うわけじゃないから、分からないけど。でも、たぶんこれは春継なりの、もう気を遣わなくていいよ、っていう意思表示なんだと思う。
 ソファに沈めていた体を起こした春継が、こちらを向く。
「……今日のお夕飯は何がいいかな?」
 最初に聞いてくるのがそれかよ、と思わず笑ってしまった。
「アンタさ、もっと自分優先でいいよ。そんな頑張りすぎることないって」
「うん? 何のことだろう」
「んー、オレはもうちょいこうやってくっついてたいなーってこと。勿論無理強いはしないけど」
 別に夕飯が外食だろうがデリバリーだろうが、春継が傍にいてくれるなら気にならない。明日は休みだし、なんならオレが作ってもいい。気持ちの切り替えが上手なのは春継のいいところのひとつだけど、もし春継が「そうしなきゃいけない」って思ってるんだとしたらそれは嫌だ。
 春継は眉を下げて笑った。そして、「甘やかしすぎてはいけないよ、って、いつも言っているじゃないか」とオレの上に覆い被さってくる。そのまま体重を預けるように抱き付かれて、人間一人分の圧迫感が不思議と心地よく思えた。
「いいだろ、甘やかすくらい。恋人なんだから」
「んんん……」
「春継はオレがこういうことすんの嫌?」
「まさか。嬉しいよ」
「だったらオレも嬉しい。それじゃ駄目?」
 春継は、「いい」とも「駄目」とも言わずにただ「ありがとう」とだけ呟いた。
「冬眞くんは優しいね」
「そ? アンタだってオレが落ち込んでるときすぐ気付いてくれるから、おあいこだと思うけど」
 どうしてだか、ここで春継は恥ずかしそうに俯く。どうしたの、と聞いてみると、「こうして甘やかしてもらって、それを嬉しく思うのが恥ずかしいんだ」という答えが返ってきた。マジか。オレだって甘やかされることを恥ずかしいと思うことはそりゃあるけど、甘やかされてそれを嬉しく思うことを恥ずかしいと思ったことはない……気がする。
「アンタの恥ずかしがるポイントって不思議だよね」
「そうかな? だって、甘やかしてもらって喜ぶなんて幼い子供みたいじゃないか」
「いやー、いくつになっても嬉しいでしょ、甘やかされるの。オレはこの歳になってもアンタに優しくしてもらえたら嬉しくなるよ」
 それに、甘やかされてるって自覚できる奴は十分大人だ。春継はそれこそ未成年のときからいっぱしの大人みたいな振る舞いが板についていたし、きっと周囲にもそれを望まれていたんだろうけど……もっと甘えることを覚えてもいいのに、と思う。
 よしよし、と頭を撫でてやると、密やかな笑い声が耳に届いた。これはお気に召したらしい。
「……ふふ。元気になったよ、ありがとう」
「よかった。……あの、入社したばっかだしまだ慣れないだろうから、何かあったなら話聞くけど……」
「うん? ああ、別に仕事のことではないんだ。大丈夫。ちょっとね、絵が思うように描けなくて落ち込んだだけだから」
「……思うように描けないこと、あるんだ?」
「それは勿論。どうしておれには才能がなかったんだろうって思うこともある……けど、それはまあ、生まれつき足が速い人と遅い人がいる、というのと同レベルの話だからね」
 足の遅い人間がどんなに努力したところで元から足の速い人間には敵わないのだ、というようなことを春継は静かな声で言った。こいつは大体のことが人並み以上にできるというのに、もっともっと高いところを見ているんだなとほんの少し苦しくなった。これはきっと、下手に慰めてはいけないことだろう。だってこいつは、絵を描くことが何よりも好きで、ずっと描き続けてきて、それでも超えられないものがある、という結論に辿り着いてしまったのだろうから。
「もしその才能貰えたら、他の全部いらなかった?」
「うん? いや、それがね。意外とそうでもないんだ。だからこれでよかったんだろう。もしおれに絵の才能があったら、さっさと芸術で身を立てていけるようになって、あなたと出会うこともなかっただろうし」
「そ、それはやだ……」
「おれもあなたと一緒にいられなくなるのは嫌だよ」
 ちゅ、と耳元にキスを落とされてくすぐったい。思わず首を竦めると、「ごめんね」という笑い混じりの囁き声がした。
「きっとおれのこの悩みは、他人から見れば贅沢なものなんだろうと思うよ。自分で言うのもなんだけど、おれは大体のことは人より上手くやれるからね」
「それはアンタが人より努力してるからだよ」
「ふは、やけに褒めるね。うーん……なんだろうな。例えばだけど、兄曰くおれは人に好かれるたちらしい。人との会話が苦じゃない……というのは自分でも感じるんだ。飲み会も、嫌だと思ったことはないな、そういえば」
 相手が初対面でも立場が上の人でも問題ないしあまり緊張もしない、と、春継は軽く付け加える。どうやらお偉いさんの自慢話にも笑顔で相槌が打てるタイプのようだ。おまけに、どういう話題を選べば相手が喜ぶか、気分よく喋ってくれるか、なんとなく分かる……とのことで。世渡り力がありすぎる。
 春継は同年代の友達があまり多くないけれど、それはきっと春継自身が相手との関係を自覚的にコントロールしているからだ。
 人から好かれはするが、人との距離感が特別近いわけではない。親しげな雰囲気のままで一線を引く、その塩梅が抜群に上手い。
「おれには逆立ちしたって百メートルを十秒そこらで走ることはできないけれど――というか、まず逆立ちができないけれど。おれが当たり前にやっていることも、他の人にとっては『すごいこと』なのかもしれない。そういうものだよね」
 春継はゆっくりと立ち上がる。「さあ、いい加減お夕飯にしよう。このままじゃどんどん遅くなってしまって健康に悪いよ」その声はすっかり平常通りで、オレはほっとする。
「春継、元気になった?」
「なったよ。そしてあなたと話していて気付いたことがある」
「ん? 何?」
「おれには絵で食べていく才能はなかったけれど、絵を好きでいる才能はあると思うんだ。だってこんなに毎日描いているのに、飽きもせず毎日好きだから」
 そう言いながら春継が見せた無邪気な笑顔は、オレにとって大層魅力的に映った。可愛いな、と素直に思う。こういう、変にヒネてないところが春継の魅力だ。
「オレも、楽しそうに絵を描いてるアンタのことが好きだよ」
「嬉しいな! ありがとう」
 立ち上がった勢いのまま、ぎゅっと抱き締められる。こいつからはなんだか安心できる匂いがする。
 オレは今日も明日も、こうして絵を描くことが好きなこいつのことを好きでいるんだろうな、なんて、人知れず思ったりしたのだった。

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