深谷がバグった。どこが、って……全体的に?
朝、いつもだったらおれが朝起きられないせいでどんなに急いでも学校目前じゃないと登校中の深谷に追いつけないのに、今日は何故だか駅前で深谷を見つけた。めちゃくちゃ嬉しくて、「えっおはよぉ深谷なんで今日いつもより遅いの? 寝坊したの? 珍しくね?」と朝からフルスロットルで話しかけてしまった。すぐはしゃいでしまうのがおれの悪い癖だ。こういうとき、深谷は大体面倒くさそうな顔でおれのことをあしらうんだけど、今日は違った。
「……別にお前を待っていたわけではない」
「え? うん。……あ、誰かと待ち合わせだった? ごめんね邪魔して」
なーんだ、他に用事があったっぽい。ちょっとしょんぼりだ。だったらおれがいても邪魔だろうと思ってその場を離れようとすると、ワイシャツを後ろから引っ張られて深谷のところに逆戻りしてしまう。え、なになにどしたの。
「深谷?」
「なんだよ。お前何か用事あったの」
「えっ別に何も……というか深谷は誰かと待ち合わせしてるんじゃ」
「してない」
「そうなの? じゃあなんで駅にいたの?」
「別にお前を待っていたわけではない……」
「に、二回目……そんな念押さなくていいよぉ」
「……でも、会えたらいいなと思って電車の時間ずらした」
「ああそう……――んん? え!? うそ!」
危うく聞き流しそうになって、思わず大声をあげてしまった。けれど深谷はそんなおれに怒るでもなく、ただ「遅刻するから早く行こう」と言っておれの手を引いてくれた。ほんの一瞬絡まった指先はすぐに解けてしまったけれど、深谷の指先は温かかった。
――どうしよ、深谷おかしくなっちゃったのかなぁ?
おれは、嬉しいような突然の奇行が不安なような、複雑な気持ちで深谷の背中を追った。その後もついつい話しかけてしまったけれど、深谷は一度も「うるさい」とは言わなかった。
おれが深谷のことを意識するようになったのは、一年の秋の席替えで隣の席になってから。国語の小テストの採点のために答案用紙を交換して、そしたらその答案用紙に並んだ字がめちゃくちゃキレイで、おれはびっくりしてしまったのだ。
ふにゃっとした丸い自分の書き文字がちょっと恥ずかしくて、それを誤魔化すようにおれは言った。『深谷の字ちょーキレイじゃん? すごいね、おれもやっぱ練習すべきかなぁ』とかなんとか。そしたら。
『お前の字もいいじゃん。優しそうで』
『え……?』
『……あー、と、優しい奴が書いた感じの字だってこと。周りをよく見てるっつーか、周りに合わせるっつーか……そんな感じの字』
どんな感じなんだ、と思ったけれど、悪い意味ではないだろうというのは雰囲気で分かった。字を褒められたのなんて初めてで、というか字を褒めてもらえるのは深谷みたいに字がキレイな人だけだと思ってたから、なんだかとても新鮮な気持ちだった。
それで、深谷のことをなんとなく目で追うようになってから分かったこと。深谷は書道部の副部長らしい。男子部員はかなり珍しいみたいで、女子に囲まれて何やら話をしているところをよく見る。そういえばおれが仲良くしてる子にも書道部の子いたなぁって思ったから深谷について聞いてみたら、かなーり印象よさげ。人とにこやかに喋るタイプではないけど、落ち着いてて頼れるし、女に対して変に下心を出してこないのが何よりいい、んだとか。
おれの周りにはあんまりいないタイプだなぁ、って思った。落ち着いてて頼れるタイプ、そうそういないよね。やっぱり眼鏡だから?
そんなことを考えつつ、隣の席から深谷のことを観察した。深谷は毎日字がキレイだ。黒板に書く字も、学級日誌に書く字も、全部。
優しそう、って言われたのがなんだか嬉しかったから、深谷に接するときはいつもより優しく丁寧に見えるように心がけて接するようにした。そしたら、『お前、女だけじゃなくて男にもそんな丁寧にしてんの?』と笑い混じりに言われてちょっと恥ずかしかった。耳が熱くて俯いたら、深谷はやっぱり楽しそうな声音でおれに言った。
『いいじゃん、そういうの』
――そのときのことを思い出して、思わずにやけてしまった。いいじゃん、って言われたのだ。飾り気も何もない言葉だったから、かえって本気で言ってくれているように思えてどきどきした。褒められたから懐いてしまった。
で、懐きまくってたらいつの間にか褒められてない全然普通にしてるときも深谷に対してどきどきするようになってしまって、今に至るというわけ。
玉砕覚悟で告って、そしたら意外にも受け入れてもらえて、ラッキーって思ってた。でもおれ、嬉しいと色々セーブできなくなっちゃうんだよねぇ。そのせいでよく「うるさい」って叱られる。ごめんねうるさくて。もっとおしとやかにしてたら深谷はまた『いいじゃん』って言ってくれるかなぁ。
そこまで考えて、午前の授業終了を告げるチャイムが鳴った。やべ、授業全然聞いてなかったわ。
昼ごはんを調達するべく鞄から財布を取り出す。立ち上がりつつ、それにしても今朝の深谷はおかしかったなぁ、なんて思い返した。いつもより優しいというか、甘い感じだった。そもそも深谷はいつだって優しい。二年でクラスが別々になっちゃったのがつくづく残念だ。会いに行こうと思えばいつでも行けるからいいけどね。
ぼんやりしながら教室の外に出ようとすると、横からにゅっと伸びてきた手に腕を掴まれる。
「うわっ! え、あれ? なんで深谷?」
「なんでって。俺がきたら嫌だったか?」
「そんなことないけど! どしたの? 誰かに用事?」
深谷はおれの言葉を受けてむっとしたように見えた。えー、おれ深谷の地雷が全然分かんない。でも深谷の手があったかくて嬉しかったので、黙って反応の続きを待った。
「……今から飯?」
「そ、そうですが……」
「…………俺もまだだから、もしよかったら一緒にどっかで食おう」
あまりの事態に一瞬思考がフリーズする。え、ほんとにどうしたの!? 宇宙人にさらわれて脳みそ改造されちゃったの?
深谷って、あんまり人前でべたべたするの好きじゃないんだと思う。パーソナルスペースってやつが広め。自分から誰かに触れるってこと自体珍しいし、触れられるのも若干身構えてるのが分かる。だからおれも、そういうところは踏み込まないようにちゃんと気を付けてた。
でも今の深谷は、自分から手を伸ばしておれに触れてくれている。
「……あの、おれと一緒に食べるんじゃ落ち着かないかもしんないけど……えっと、うっとうしかったらすぐに言ってね」
「は? 鬱陶しいと思ったことなんて一度もないけど」
「うぇえ? ほんとぉ……?」
「本人が言ってること信じらんねえの」
「し、信じます」
よく考えたら、うっとうしい、なんて言われたことは一度もない。そもそも深谷は嫌なら嫌って主張するタイプだ。深谷の本心がそうなら、おれが告白した時点でばっさり断っててもおかしくない。でも実際はこうして一緒にいてくれる。お昼一緒に食べようって誘ってくれる。
おれ、もしかしてちゃんと深谷に好かれてたのかなぁ。
だったら、半信半疑みたいに接しちゃって申し訳なかったなぁ。
思い切って深谷の手をそっと握ってみる。深谷はおれを振り返って、ちょっとだけ恥ずかしそうにして――おれの手を優しく握り返してくれた。