羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 鍋食いたい、と突然言われて、おれは「え?」と先輩のほうを見た。おれの言葉を受けて、先輩は再度「鍋が食いたい」と言う。
 塾通いの合間の貴重な先輩タイムに、おれはふわふわ幸せな気持ちで「鍋ですか? 毎日寒いですもんね」と返した。
「ん。家で食いたい」
「そっか、先輩料理できるんだっけ……キムチ鍋とか好きそうですよね」
 と、ここで先輩がおれの靴の踵を軽く蹴ってくる。一体何がお気に召さなかったんだろう。しばし考えて、先輩のちょっと拗ねたような表情にぴんときた。
「一緒に食べます?」
「ん」
 こくり、と素直に頷かれておれは内心微笑ましく思う。先輩、人を何かに誘うのが下手すぎる……。この誘い慣れてない感じ、おれは好きだ。「一緒に鍋したい、家に来て」って言えないところも。
 とは言っても人のことを蹴るのは感心しない。ふに、と先輩のほっぺたを優しくつまんで、「おれ、先輩と一緒に鍋したいです。家に行ってもいいですか?」と聞いてみる。すると先輩はおれの意図をちゃんと察してくれたらしい。
「俺も……お前と一緒がいい。……蹴ってごめん」
 せ、先輩……!
 想像以上にかわいい反応をしてもらえて感無量だ。週末は先輩のご両親がいらっしゃらないそうなので、その日を狙って集まることにした。おれも何か、食材買って持って行こう。
「楽しみですね、先輩」
 笑顔を向けると先輩は真っ赤になってしまう。声こそ出ていなかったけれど、必死にこくこくと頷いているのがそれはもう花丸にかわいかったので、おれはとても満足だった。

「せんぱーい、野菜の準備できましたよ」
「おう、ありがとな」
 てきぱきと雑に鍋の材料を投入していく先輩は、一人で夕飯を食べることも少なくないらしい。毎日寒いし、ひょっとしたら寂しくなってしまったのかもしれない。そんなときに真っ先に声をかけてもらえるのがおれだというなら、こんなに嬉しいことはないなと思う。
 まあ、完全に気まぐれ……という線も捨てきれないけれど。ちょっとくらい自分に都合よく解釈してみるのもいいだろう。おれを選んでくれたことには変わりないのだし。
 先輩はまったく計量をせずに調味料を入れていくのだが、味見はおれにさせてくれた。ああでもないこうでもないと二人で試行錯誤しつつ鍋を作り上げていく。なんだか全部が新鮮だ。
 おれ、自分で言っちゃうけど昔から優等生で勉強優先に生きてきたから、同年代の人とこういうことするようになったのって先輩のこと好きになってからなんだよね。学校帰りに寄り道とか、休みの日に夕飯を食べにお邪魔するとか、そういうの。
 意外なんだけど、親はおれの外遊びが増えたことに対して何の小言も言わなかった。成績をキープしてるからっていうのもあるのかな? でも、きっとおれが傍目に見てもめちゃくちゃ楽しそうだから、っていうのが色々と許されてる理由だろうなと思う。毎日楽しいんだよね、ほんとに。
「先輩っていつもこうやって夕飯作ってるんですか?」
「まあ大体。親がいるときは作ってくれるけど、一人のときも多いからな。コンビニ飯はすぐ飽きた」
「そういうのすごいですよね、生活力があるっていうか」
「そうか? こんなもん、ただやったかやらないかだけの違いだと思うけどな……っつーか俺もやりたくてやってるわけじゃねえし。何もしないで飯が出てくるならそっちのがいいだろ」
「そうですねぇ。でもおれ、こうやって先輩と一緒に夕飯作るのは楽しいなって思ったよ」
「……あっそ」
 あ、照れた。かわいい。
 共働きで多忙で放任主義の先輩の親御さん。おれのとことは正反対。でも、こうして何かを一緒にすることが楽しい、って思えるのは共通してる。
 鍋をつつきながら、いつもよりゆっくり先輩と喋った。今日は風が強くて、まだそんなに遅い時間じゃないのにぴゅうぴゅうと寒そうな風の音が聞こえる。確かにこういうとき、一人だときっと寂しいな。先輩が「寂しい」って言ってくれたらいくらでも一緒にいるのに。……流石に無理か。でも心意気はそんな感じだ。
 鶏肉を噛み締めると、じわっと味が染みてくる。胃に温かさが落ちていく。
 お鍋おいしいね、と言ったら、いつもより美味い、と弾んだ声で言われた。味付けがよかったのか、それとも二人で食べたのがよかったのか、正解は先輩のみぞ知る……というやつ。
 終わりが名残惜しくて、殊更時間をかけて食べて、後片付けをした。先輩もいつもより動作がゆっくりだったから、同じ気持ちだったと思うんだけど……どうかな。
 もう片付けるものも見当たらなくなってしまったので、テーブルも綺麗に拭いてソファへと移動する。一瞬会話が途切れた後、先輩の静かな声がした。
「……なあ、もう帰るか?」
「えっ。用が済んだら帰れ的なやつですか? できればもう少し先輩と一緒にいたいんですけど」
「だ、誰も帰れとは言ってねえだろ! お前んとこ普通に親いるから……心配するかと思ったんだよ」
「そういうことなら、ちゃんと親には連絡してるんで大丈夫ですよ。とは言ってもあんまり遅くなると怒られるからあと三十分くらいがリミット」
 微かな頷きの後、手に温かいものが触れる感触。手を握られたらしい、ということに気付いて内心めちゃくちゃ驚いた。だって先輩、こういうこと自分からするって珍しいし。
「んだよその目は。潔癖症か?」
「いや違……珍しいな、と思って。あんまりべたべたするの好きじゃないでしょ先輩」
 鍋に誘われたときから思ってたけど、やっぱりちょっと様子がおかしい。悪い意味ではなく。いつもより素直さとデレが強めに出てる。
 聞くのはやめておこうかと思ったんだけど、どうしても気になったので「そういえば、なんで急に鍋しようって言ったんですか?」と尋ねてみた。先輩の行動理由が知りたかったのだ。こうやっていちいちかわいいことしてくる意味も。
 先輩は案の定口をつぐんでそっぽを向いてしまった。じわじわと耳が赤くなっていく。いくつも開いたピアスにほんのりと肌の色が反射してえっちだ。
 タイムリミットぎりぎりまでは待とうかな、それとも気まずくならないように適当に話を変えようかな、とおれが迷っている間に、先輩は何事か決断したらしい。手を強く握って顔を上げる。

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