羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「あ、智久くんだ。こんばんは」
 俺は、思わず「げ」と言いそうになってすんでのところでその声を飲み込んだ。敵意も何も無く、ただやわらかく笑って俺に手を振ってくる人物にその対応はあまりにも無礼だと思ったからだ。
 ここは高槻の店の外の灰皿横。高槻曰く『ここは喫煙スペースじゃねえからな。もし吸ってたら入店前にここで消せっつー意味の灰皿』だそうだが、ちょっと前は高槻こそ休憩中にここで煙草を吸ったりしていたのを知っている。まあ、元々滅多に吸っていなかった上にとっくに煙草はやめたらしいが。そしてその要因のひとつが今俺の目の前にいる人なのだろうと思う。
 涼夏さん。……うーん、同級生の父親を呼ぶのにこの距離感って普通なのか? 遼夜も八代も当たり前みたいに下の名前で呼ぶから合わせてるけど。
 その人は、俺がここに立っている目的を察したのか意外そうに笑った。
「煙草吸うんだね。遼夜くんがいないから?」
 いやいやいやなんで当ててくるんだよ。こえーよ。
 高槻の遺伝子を如実に感じさせる顔面でフレンドリーに接されるとどう対応していいか分からなくてちょっと困る。更に困ったことに、この人は俺のぎこちなさにおそらく気付いていて、遼夜や八代に対するみたいに気安く話したりはしないよう気遣ってくれているのだと思う。無視はしないけれど長々と立ち話もしない、くらい。その気遣いにほっとしてしまう自分がいるのも困る。まあ一番困るのは、この人が自身の配偶者について語るときの『俺の奥さんがねぇー』という甘い声なのだが。声がさ。似てるんだよ。誰にとは言わないけど。誰にとは言わないけど勘弁してくれ。言いたいけど言えない。流石にそれは無理だ。この話題のときに高槻からちらちらと『言えよ……』みたいな視線を感じるのもムカつく。お前が言え。お前の父親だろうが。
「……はい、煙草苦手な奴の前で煙草のにおいさせるの嫌なんで」
 端的に答えると、その人は目を細めて「優しいね」と笑った。顔がいい。
 今日のところはこのくらいだろう。会話の終了を感じ取った俺は煙草を咥える。店内に向かおうとする涼夏さんに目礼して、煙草に火をつけるべくポケットを漁って――。
「ん、む」
 ライターが無い。そういや家の机の上に置きっぱだ。
 店に戻って火借りるか、と煙草を口から外して視線をあげると、涼夏さんと目が合う。どうやら俺が声を出したことで振り返らせてしまったらしい。
「火無いの?」
「あ、はい……」
「じゃーん。俺ライター持ってる」
 懐から取り出されたのはジッポー。それこそ意外だった。一度も吸っているところを見たことが無かったからだ。
 俺は煙草を再び咥え直した。「ありがとうございます」と言って手を伸ばしかけたのだが、その人は俺の傍に静かな足取りで近付いてきたかと思えば、慣れた手つきでジッポーに火をつける。風避けに添えられた右手を見て、ああ、この人は左利きなのだと改めて実感した。
「どうぞ」
 伏目がちになった瞳の琥珀色が、灯火に焼かれてゆらめいている。
 煙草を人差し指と中指で支えて、内心ほんの少し緊張しながら火を貰う。煙が肺に満ちる感覚にすっと脳がクリアになる。
 こんな風に、誰かに煙草の火をつけてもらったのは初めてだ。
 ジッポーをスーツの懐にしまったその人は、立ち去るでもなく無言だった。たっぷり黙って、やがてこちらを見て気恥ずかしそうに笑う。
「……ごめんね。つい癖で」
「え。えーと、あー、煙草……?」
「いやほんと怖いんだけど体が勝手にさあ……反応すんの……怖いよね……」
 なるほど。俺が煙草を咥えたのを見て、無意識に体が動いたってことか。要するにあの慣れた手つきの着火から「どうぞ」までの一連の流れが体に染み付いてるってこと。……職業病ってやつだ。
「けーごの店とかでも気付いたらテーブルの水滴拭いてたりするんだよ……あーやだやだ」
「水滴?」
「ほら、グラスとかに結露した水滴が流れて溜まるでしょ。お客さんの袖濡らしちゃうとよくないから。グラスも滑って倒れやすくなっちゃうし、あとは単純に見た目も悪いし」
 当たり前だけど、酒作って注いで飲んで喋るだけが仕事ではないということだ。知らない世界の話は興味深い。遼夜ならもっと分かりやすく喜んで聞いたことだろう。
「……誰かに、火つけてもらったの初めてっす」
「そ? 実は俺も男にこういうことしたのは初めて」
「綺麗でした。慣れてる感じで」
「ふは、絶対慣れちゃだめなやつだよこれ。でもありがと」
「……めちゃくちゃ失礼な質問してもいいですか」
「えっ謎の予告された……お手柔らかにお願いします」
「もしこれが仕事だったら、あなたに煙草の火をつけてもらうにはいくら払わなきゃ駄目すかね」
 ずっとやわらかい笑みを崩さずにいたその人は、そこで初めて表情を変えた。とは言っても単純に俺の質問が予想外だっただけのようで、一瞬だけきょとんとした後に「変な質問」と言って笑う。一連の表情の変化が、実年齢を知っているはずのこの人をいっそう幼く見せる。
「昔の俺は高い男だったので、同じテーブルを囲むだけでも万単位でかかります。後はご想像にお任せ、って感じ?」
「うわっ……超高級体験型カタログギフト並みの経験をしてしまった……」
「智久くんってちょいちょい言葉選びが面白いよね。まあ十年くらい前の実績だから話半分に聞いてよ」
「ちなみに今はどうなんすか」
「えー? ふふ、今はねえ。けーごのお友達とこうやって喋るの楽しいから、お菓子とかあげちゃう。でもけーごの作るやつの方が美味しいよ」
 ……高槻ってなんでここまで溺愛されてんのにいまいち自覚できてねえんだろうな……ほんと……。
 女はこういう男になら喜んで大金を払うのだろう。分かる。悔しいことに分かってしまう。この人は、他人に気持ちよく、気分よく過ごさせるプロなのだ。俺なんかは余計な前情報があるせいで微妙にぎこちなくなってしまうけれど、そんな俺ですらこの人個人に対する印象はかなりいいものだった。
 ふと気付いた。今日は随分と長く喋っている。しかし、懸念していたような息苦しさも違和感も無い。
「……愛を売る仕事って大変そうっすね」
「んー? 違う違う。俺みたいなのが売ってるのは夢。女の子たちは愛じゃなくて夢を買いにくるの。逆に、夢だって分かってない子はそういう店に行かない方がいい」
 なるほど。愛ではなくて夢、か。年季を感じさせる発言だ。ホストに本気になってしまうような女はホスト遊びには向いていない。男だって、キャバ嬢やアイドルにガチ恋するようなのはただの馬鹿だろう。
 俺が思いをめぐらせていると、その人はまた笑って「それに、」とため息のような声を出す。それは、今日一番穏やかで優しい声だった。
「俺が女のひとに向ける愛は、俺の奥さんだけのものだから」
 ……なるほど、なるほど。よく分かった。この人は本当に、愛妻家だ。
 そう、聞いているだけの俺が、恥ずかしくなってしまうくらいには。

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