羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 八代は、集中してると呼び掛けに対して無反応になる。
 もう十年以上の付き合いだから今更それに落ち込んだりはしな……いこともないけど、まあ、こういうのは個人の性質に依るところが大きいと思うから気にしないようにしている。今みたいに。
「八代」
 小さく小さく声を出す。別に邪魔するつもりはない。このくらいの声掛けだったら絶対にこいつは気付かない。分かってるからやってることだ。
 おそらく今こいつは株価だの何だのとにらめっこしている最中で、合鍵を使って入ってきた俺に気付く気配はゼロだった。今日は久々に夕飯を作りに行く約束をしていたのだが、どうせまた時間を忘れて没頭しているのだろう。
 意図的に無視されているわけではない。でも寂しくはある。
 集中してるときにそれを中断されても平気な人間と平気じゃない人間がいて、俺は前者で八代は後者だった。特にこいつは、作業がノッてるときに邪魔が入るとあからさまに不機嫌になる。再びエンジンがかかるまでの時間が無駄だからだそうだ。効率重視のコスパ重視なのである。
 そういえば、津軽も集中すると周囲をシャットアウトするタイプだって奥が言ってた気がする。でもまあ、あいつはそういう場面で津軽に無視されても、性質だからって割り切れてそうだよな。そういうところがちょっと羨ましい。
 俺はひとつの作業をしててもなんとなく周囲の音が聞こえてる。誰かと会話してるとき、近くにいる他のやつらの会話の要点もうっすら認識できてる。どうやっているのかと言われても、分かるのだから分かる……としか言えない。だからちょっと理不尽なことも思ってしまう。
 俺がもし八代に呼ばれたら、他のどんなことをしていても絶対に気付く自信があるのに。
 ……と、まあ、構ってもらえなくて拗ねているガキみたいなので絶対に言えないが思うくらいは許されるはずだ。唯一の救いは、八代は全員もれなく平等に無視する――ということ、だろうか。別に「俺だけ見てろ」なんて寒いことを言いたいわけじゃない。俺は色々なことに興味を示して何でも知識として吸収しようとするこいつが好きだから。でも、ほんの少しでいいからその他大勢とは違う特別が欲しい。
 パソコンに向かう背中に念じてみる。なあお前そろそろ振り向いてもいいんじゃねえ? と。俺、お前の飯作りに来てるんだけど。流石にキッチンに立ったら気付かれそうだし、集中切らせちまったら困るから動けねえんだけど。
 心の中で賭けをしてみる。あと三秒。三秒数えるまでにこいつが振り向いたら俺の勝ちってことにしよう。
 さん、にい、いち、
「――ッよっし売り抜け! オレの勝ち!」
 ぜろ、とカウントする前に叫ばれて本気でびっくりした。あまりにも大きすぎる動作でエンターキーを叩いて、八代は驚きすぎて動けずにいる俺を勝手に発見して勝手に大騒ぎしている。
「ってあれ、高槻いるし!? なんで? 今何時? え、もう夕飯? オレの夕方の自由時間どこ!?」
「――う、っるせえなお前……自由時間がどこいったか目の前のパソコンに聞いてみろ」
「マジかあ……もしかして待たせた? ごめんね。あっでもでも、今日割と利益出たから次の休みにちょっといいもん食いに行こうよー! 奢っちゃうぜ」
 ほくほく顔の八代に色々と文句を言う気も失せる。俺がこの空間で黙って過ごした時間をこいつは知らない。知らなくてもいい。
「飯作る。冷蔵庫の中どうなってる? 食料は?」
「えーっと、コンビニでもらったおでん用の辛子……?」
「ばか。あーもう、買ってきといて正解だったっつの。何分待てる?」
「お腹すいてる」
「……、……二十分待って。三品作る」
「それ時間配分どうなってんの!? ここのコンロ二口しか無いからね!」
 米、炊き立て冷凍したやつ持ってきておいてよかった。流石に電子レンジで解凍くらいは八代にやらせよう。持ってきた食材とワンルームの貧相なキッチン設備とを計算に入れつつ立ち上がろうとしたら、あろうことか八代は俺の服の袖を引っ張ってきた。おい、腹減ってんだろ。
「高槻、オレ三十分くらいは待てるよ」
「ん? 品数増やせって?」
「ちがーう! 待たせちゃってごめんね。お前さ、声掛けてくれてよかったのに。何分待たせちゃったかはちょっと分かんないけど、お詫びに十分くらいぎゅーってしよ」
 そのまま両手を広げて待ちの姿勢になった八代に、ちょっと気恥ずかしく思いつつ俺はそれを受け入れた。声は掛けたぞ。小声だったけど。
「……お前、実際作業邪魔されたら怒るだろ」
「えー。確かに他の奴だったらキレるかもだけどお前だったらいいよ。可愛く『俺も構って』って言ってくれたら何もかもオッケー」
「調子いいことばっか言いやがって」
「ほんとだもーん。次からは変に遠慮しないでね、数百万単位での機会損失は出るかもだけど」
「いやその話を聞いたら全力で遠慮するだろ」
「高槻との時間は何物にも代えがたい価値があるってこと。分かる? 特別だからね」
「とくべつ……」
「そ。だからいいの。それにオレ、そのくらいの機会損失はすぐに取り返せますから!」
 褒めてほしそうにしていたので腕に力を込めてぎゅっとしてやると、「ちょうどいい圧迫感ー」とご満悦そうだった。
「今日の夕飯はなに?」
「時間ねえから豚の生姜焼きと味噌汁ときのこのソテーと温野菜。ブロッコリーとかぼちゃ」
「一品増えてない……?」
 細かいこと気にするなよ。自分でも機嫌いいの分かって恥ずかしいから。
 米を解凍するように八代に言って、今度こそ立ち上がる。「まだ五分も経ってなーい」と唇を尖らせていた八代だったけれど、「続きは夕飯の後」と言ったら途端に笑ってくれたので、俺ってやっぱりかなり幸せ者かもしれないな、と噛みしめてみたりした。

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