羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 その日は午後の講義が教授の都合で休講になって、行祓の作ってくれた弁当は家で食べよう……とチャイムが鳴ってすぐ席を立った。友人たちと適当に別れ大学をあとにする。今日、確か行祓は午後までしっかり授業があったはず。天気もいいし、日も長くなっているし、せっかくだからシーツを洗濯しておこうか。そんなことを考えつつ駅までの道のりを歩く。
 家の最寄り駅に到着して、スーパーに寄ったのはたまたまトイレ用の洗剤が少なくなってきていることを思い出したからだ。そういえば歯ブラシも毛先が開いてきている気がするし、行祓のやつも一緒に買っておこう。カゴに日用品を色々放り込んで、レジへと進む途中にふわりと甘い匂いがしたので思わず立ち止まる。
 そこは果物コーナーだ。初夏から秋にかけて様々な果物が並ぶそこには、ちょうど出端の桃も並んでいる。買って帰ろうか……と一瞬悩んだものの、すぐ思い直した。というより、いいことを思いついた。
 俺は桃の隣に並んでいた葡萄を手に取る。確か、行祓は葡萄が好きだったはずだ。紫のやつじゃなくて、緑のやつ。実が少し硬めで皮ごと食べられるやつがいい、と言っていた。どうやらそのまま食べるだけでなく、酢漬けにしてピクルスのように食べても美味しいらしい。
 あいつはいつも基本的に俺の好みを優先させてしまうから、こういうときくらいあいつの好きなものを買って帰りたい、と思ったのだ。桃は皮を剥いてカットしないと食べられないが、種無し葡萄なら表面を洗うだけでいいので俺でも準備できる。あいつが帰ってきたら、夕飯の後にでも洗って出そう。勿論これは共有の生活費から買うんじゃなくて、俺の個人的な買い物ということにする。果物は高いのだ。この葡萄だけでも二千五百円くらいするし。桃はほんの少し名残惜しくはあるが、これまで一緒に買うと居酒屋で飲み会のコースを頼んだくらいの値段になってしまう。今日のところは葡萄で十分だろう。果物は全般好きだから俺も食べるのが楽しみだ。
 ――あいつは喜んでくれるだろうか。
 そわそわと心が落ち着かない。ひとまず早く家に帰って弁当を食べて、すぐ洗濯しよう。シーツを干している間にトイレ掃除をして、掃除機をかけて――ああ、どうしよう。なんだか緊張する。
 カゴの中に増えた葡萄一房ぶんの重みに心が浮き立つのを感じて、俺は足早にレジへと向かったのだった。


「あれ? まゆみちゃん今日は早かったんだね。おかえり!」
「午後休講になって。ただいま。……行祓もおかえり」
「へへ、ただいま。もしかして今日シーツ洗濯してくれた? ありがとう」
 ちょうどシーツを取り込んだばかりのタイミングで帰ってきた行祓は、ソファの上に広がったシーツを見てふにゃっと笑った。なんだか胃がくすぐったい感じがする。本当はすぐシーツを各部屋に持っていくべきなのだが、今日は先に買ってきた葡萄を行祓に見せたかった。こいつは驚くだろうか。さっきみたいに柔らかく笑って、「ありがとう」なんて言ってくれたりするだろうか。
 期待に胸を膨らませつつ、名前を呼ぼうを口を開きかけた瞬間。「あっそうだ! まゆみちゃんまゆみちゃん、これ見て」と行祓に先を越される。ん? どうしたんだろう。
 行祓が掲げたのはスーパーの袋。そいつが中に腕を突っ込んで、ゆっくりと中身を取り出す。
 そこにあったのは。
「じゃーんっ。スーパー見たら桃が出ててね。美味しそうだったから買ってきちゃった。夕飯の後に食べようよ」
 ピンクから柔らかなクリーム色へのグラデーション。袋から取り出した瞬間にふわりと甘い匂いが漂う。大きくて丸いそれは、俺がスーパーで買おうかどうか迷ってやめた桃だった。
「……ん? なんか反応いまひとつ?」
 慌てて首を横に振る。そうじゃない。ただ、ものすごく驚いただけだ。行祓を驚かせるつもりがこっちが先に驚かされてしまって、俺はほんの少しだけ悔しく思いながら行祓の服の裾を引いて冷蔵庫の前へと誘導した。
「……開けてみて」
「え、どしたのまゆみちゃん。開けるけど」
 冷蔵庫じゃなくて野菜室の方。そう伝えると、行祓は素直に野菜室を開けた。見えやすい位置に入れておいた葡萄にすぐ気付いたそいつは、ぱっと顔を上げて俺を見る。
「葡萄買ってきてたの?」
「ん……」
「あれ、でも、桃の方が好きだよね」
「う……だ、だって、お前が緑の葡萄好きだって言ってたから……」
 言いながら、じわじわ顔が熱くなっていくのを如実に感じて思わず顔を覆ってしまいたくなった。恥ずかしい。何が恥ずかしいって、きっとこいつも俺と同じようなことを考えていたのであろうことが一番恥ずかしい。
「おれのために、桃じゃなくて葡萄買ってきてくれたの?」
「お前だって俺のために自分の好きな葡萄じゃなくて桃選んでくれたんだろ……」
 どんどん声が小さくなっていく。行祓は今どんな顔をしているだろう。恥ずかしすぎて目が合わせられない。
「……っ桃、買ってきてくれて、ありがと……嬉しい、すごく」
 どうにかそれだけ声に出せた。日本語覚えたての外国人の方がまだマシな喋り方するんじゃねえのってくらいたどたどしい内容だったけど、顔どころか耳まで熱くてどうにもならない。もしかしたらこいつも、俺が桃を見てどんな顔するかとか、喜ぶだろうか、とか、色々な想像を巡らせて帰ってきたのかもしれないのだ。俺と同じように。
 それは……なんだかとても、得がたく優しいものであるような気がする。
「まゆみちゃんがここまで恥ずかしがるの、珍しいね」
「な、なに言って」
「……へへ。葡萄、ありがと。一緒に食べよう」
 桃も、一人一個ずつのつもりだったけど一個を半分ずつにして一緒に食べようか。そんな提案をされて、いっこうに熱の引かない頬を持て余しつつ頷く。
 きっと、今日も明日もデザートはこれで決まりだ。

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