羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 自分以外の人が作ったご飯が食べたい。そう思って、いつもより二時間早く家を出た。今日の夜は弟もいないから食事を用意しておく必要が無い。自由に適当にして大丈夫なのだ。
 今は平日の昼下がり。客足が途切れたであろうランチタイムの終わり頃を見計らい、もう何度か訪れているお店に行ってみた。仕事に行く前にゆっくりおいしい食事をとりたかったのだ。そしたらカウンター席には見知った顔。「あれ、ゆきじゃん」と気安い口調でやんわり笑うその人は、俺の恩人のスズカさんだ。
「こんにちは、スズカさん」
「はい、こんにちは。ゆきはこれから仕事?」
「仕事です。今日はゆっくり食事したいなーと思って少し早く家出てきました」
 どうやらスズカさんはちょうど食事を終えてコーヒーを飲んでいたところらしい。何も考えずにスズカさんの隣に座ってしまって、あっやばいかも、と思った。何がやばいって、あれだよ。俺はここの店長さんに、あんまりよく思われてない……気がするって話だ。特にスズカさんと一緒にいるときの視線がちょっと怖いような……。それ以外だと別に普通っていうか、俺にも優しいんだけどなあ。仲良くしたいとも思ってるんだよ、マジで。
 こんなときに限ってオーダーを取りに来てくれたのが店長さんなの、自分のタイミングの悪さをひしひしと感じる。店長さん……高槻さん? 高槻くん? なんて呼べばいいのか迷うけど、とにかく彼は俺を見てにっこりと笑った。作り笑い百パーセントである。分かる。だってスズカさんの作り笑いとそっくりだから……。
「えっと……本日のランチをひとつ」
「かしこまりました。お飲み物は何になさいますか?」
「あ、コーヒーで……」
「ホットとアイスがございます」
「じゃあホットを……」
「お飲み物はいつごろお持ちしましょうか」
「食後でお願いします」
 一連の会話を聞いていたスズカさんが、「なーんか二人とも他人行儀じゃねえ?」と声をあげる。俺は、高槻さんがぼそっと「触れるなよ……」と言ったのを聞き逃さなかった。こ、こわっ……。
「っつーかお前この後夕谷さんのとこ行くんだろ。遅れたりするんじゃねえぞ」
「え? んー、正直行くのめんどいけど行かなかったら後が怖いから行きます……じゃあ、けーごもゆきもお仕事頑張って。ばいばい」
 ひらひらと華奢な手を振って、レジを素通りして出て行ったスズカさん。それなりの頻度で食べにくるので食事代はひと月分ずつ前払いしているのだと前に聞いたことがある。いつもこうやって食事をしているのだろう。高槻さんが、その後ろ姿を見送って微かにため息をついたのが分かった。
 ドアベルの余韻がまだ残っている店内で、客は俺一人だけだ。もう少しすればケーキを求める客が入ってくるだろう。今はちょうどアイドルタイムといったところか。
 ふと視線を上げると高槻さんと目が合った。沈黙。き、気まずい……。
「……早く折り合いをつけたいけど」
「え?」
「あんたのせいじゃないのは分かってるけどまだやっぱり消化できない……から、ごめんなさい。表には出さないように努力する」
 高槻さんは謎の言葉を残して厨房に引っ込んだ。確かにまあ、彼の作り笑いは完璧だから他人が傍目に見たら絶対に分からないだろうけど。一体何を消化しようとしてるんだろうか?
 よく分からないまま食べ放題のパンやサラダを取って食べつつおとなしく待っていると、十五分ほどでメインの料理が運ばれてきた。牛肉がごろごろ入ったシチューだ。スプーンを当てるだけでほろっと崩れるブロック肉は非常にロマンがあると思う。十分に冷ましてひとくち食べて、やっぱり誰かの作ってくれた食事はおいしいな……と思わず天を仰いだ。はー、明日の夕飯何にしよう。
 高槻さんはまだカウンターの中で作業をしているようだったので、「ご飯おいしいです……」と対話を試みる。すると、彼は「よかった。ありがとう」と微笑んだ。……たぶんこれは作ってない笑顔だよ、ね?
「あの……もし俺が何かやらかしちゃってたら教えてね。直したいっつーか気を付けたいっつーか……」
「いや、んー、さっきも言ったけどあんたのせいじゃない……俺の気の持ちようってだけ」
「そ? 何かもやもやしてるならここで吐き出しちゃえば? 愚痴の聞き役なら俺慣れてるよ」
 俺はスズカさんにめちゃくちゃお世話になったんだけど、恩返しみたいなことは実は殆どできていない。俺にできるようなことは無かった、っていうのが正しいかも。だから、代わりにってわけじゃないけどスズカさんの大切な家族が困っていたりしたらできるだけ力になりたいと思ってる。それに、愚痴の聞き役慣れてるっつーのはほんとの話。酒を提供する仕事だとどうしてもね。楽しく飲んでくれる人が大多数ではあるけどさ。

prev / back / next


- ナノ -