羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


「真砂! おはよー」
 次の日の朝、夏休み気分の抜けない教室でおれがそう声をあげたとき、周りの奴らは「真砂」というのが誰なのか一瞬分からなかったようだった。
 おれの机の周りにたむろしてた奴が、教室の入り口を見て「ひえっ神原……」と小さく呟くのと、真砂が戸惑うような視線を彷徨わせて軽く唇を噛んだのがほぼ同時。「真砂」もう一度、なるべく優しい声音を心がけて名前を呼ぶとそいつは鞄の紐の弄りながらゆっくり歩いてくる。
「……おはよ」
「ん。宿題終わったー?」
「終わった。あの、」
 本ありがとう、と至近距離で耳打ちされる。あまりにも近かったので驚いたがなんのことはない、周囲にばれないように気を遣ってくれたのだろう。昨日おれは、『神原にだけ』と言って本を読むのが好きだということを話したのだから。
 なんだか背筋がむずむずする。おれが、神原にだったら教えてもいいな、と思った気持ちを、こいつは大切にしてくれているのだ。
「……お前らって仲よかったっけ?」
 おそるおそる、といった風に周りから声をかけられた。「つい最近仲よくなったんだよ。面白い奴だよ、真砂は」と返しておく。最近っていうか、昨日だけど。
 普段おれがつるむような奴らはノリも脳みそも軽いけど、こういうときの切り替えがスムーズだ。自分たちの身の安全を確信するや否やちょろちょろと真砂の近くに寄っていってコミュニケーションを試みている。こいつらの美点だと思う。
「神原は宿題するの?」
「は? え? するけど……?」
「えーするの!? するんだ……その髪かっこいーよね、ピアスはしないの?」
「どうも……ピアスはしない、というかここ一帯のピアス率の高さはなんなんだよ……どいつもこいつも耳に穴開けてて怖えよ……」
 真砂を囲んでいたうちの一人が、「神原の顔の方が怖いよ!」と馬鹿正直なことを言って隣の奴に頭をはたかれている。けれどすぐに「でも怖いの顔だけだったねー」とも言っていたので発言に悪気は無いのだろう。ぎりぎり見逃すことにした。
「っつーか俺神原の声初めて聞いたかも! 教師もビビッて授業中当てないもんな。喋ったら案外ふつうじゃーん。言ってくれればよかったのに」
「ねー。そしたらもっと早くに喋れたじゃんね。俺とか一年のときからクラス一緒だったんだけど!」
「なんで響と仲いいの? 神原って家どの辺りだっけ。他校の奴らに喧嘩売られて十対一で相手ぼこぼこにしたってほんと?」
 矢継ぎ早に繰り出される言葉に、あっという間にキャパオーバーを迎えたらしい真砂が混乱している。どうにかこうにか「喧嘩はしない……! 喧嘩はしない……!」とそいつの中で一番重要なのであろう誤解を解き、助けを求めるような目でこちらを見てきた。
 え、何。なんかかわいいことしてんね。そうやって頼られるの気分よかったりするんだけど。
「ストーップ! お前ら質問責め激しすぎでしょー。ほら見なさい真砂を。困ってるじゃん。質問はお一人様ひとつまででお願いします!」
 何キャラだよ、と笑われたが気をそらすことには成功したらしい。神原ごめんね、と包囲網が壊れた隙をついて、そいつはすすすっとおれの横に寄ってきた。いやだからそのかわいいのは何。
 予鈴が鳴ったというのもあり、他の奴らは各々自分の席へと散っていく。おれは真砂に目配せして、「いい奴らでしょ、みんな。ちょっと考えなしに喋るけど」と小さな声で言ってみた。頷かれたのでほっとする。おれの友達は、こいつに受け入れてもらえたようだった。
「めちゃくちゃぐいぐい来られた……」
「嫌だったら嫌ってはっきり言うのがいいよ。別にそれで気ぃ悪くしたりしないから」
 気のいい奴らなのだ。あいつらならきっと、真砂がピアノを弾くのだということを知っても素直に感動してくれるだろうとおれは思っている。けれど、それを真砂に言ったりはしなかった。おれだって、頭では分かっていたところで実際に自分の趣味のことはカミングアウトできていないのだから。これまでの経験に基づく自衛を覆すにはそれなりの勇気がいるのだということは身を以って知っている。
 それに、あいつの秘密を知っているのがおそらくこの学校でおれだけだろう、というのはなんだか嬉しい。今はそれを崩したくなかった。
「ねえ、放課後ひま? 昨日の続き聴きたい」
 間違っても周りに聞こえないように小さな声で言う。ピアノのことでもあり、真砂のことも指していた。いや、ピアノがこいつの人生とほぼ同義であるなら、おれの聴きたいことはきっとひとつだけなのだろう。
 ずっと目を伏せ気味だった真砂が、このときだけはおれのことを真っ直ぐに見て「ありがとう」と言った。おれの質問の答えには全然なっていなかったけれど、意図は分かる。
 本鈴が鳴った。自分の席に戻っていく広い背中を眺める。昨日まで知らなかったその背中が、今はこんなにも近い。

prev / back / next


- ナノ -