羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 SNSやテレビ、あとは普段の生活での些細な雑談で最近しきりに聞く言葉がある。「平成最後の夏」。どうやらおれたちは、平成最後の夏が高校最後の夏になるらしい。
 じゃあ、その「平成最後の夏」の最後の最後の日にいつもと違うことをしたら。
 何か、あっと驚くようなことが起こるかもしれない。そんなことを考えて一人でわくわくしてしまったおれは、夏休み最終日になんと学校に行くことにした。貴重な夏の、更に貴重な最終日だ。どんだけ物好きなんだと思わなくもないが、そのときのおれは何かが起こる確信に満ちていたのだ。
「うわっ、休み最終日の学校めちゃくちゃ静か……」
 いつもより足音が反響する。自然とこぼれた独り言を恥ずかしく思いながら歩くおれの耳に届いたのは、そんな静けさの中に隠れるような、柔らかい音色だった。
 ――おれはこの曲を知っている。
 なんだろう、ピアノ……で合っているだろうか? これまでの人生まったくクラシックに縁の無いものだったが、そんなおれでも聞き覚えのあるメロディだ。誘われるように音の発生源を辿ると、やはりというかそこは音楽室。ほんの少し扉が開いていて、ああ、だから音が漏れていたのかと合点がいった。
 一体誰が弾いているんだろう、とおれが思ってしまったのはきっと仕方のないことのはずだ。
 だって今は夏休みで、吹奏楽部が活動をしているのだと言うにはピアノ以外の音があまりにも静かだった。誰もいない廊下。呼吸音すら邪魔に思えるような空間。そんな普段の生活から乖離した世界を、この小さな音楽室にひっそりとかたちづくっている誰かがここにはいる。
 おれは息を殺して扉に近づく。細く開いた扉の向こうには、見慣れた木製の椅子と教壇がある。視線を窓際に動かしていくと、ひときわ目立つ、真っ黒につやつや輝くピアノ。鍵盤の上を、骨ばった指を持つ大きな手がなめらかに動いている。細い手首。白く目に眩しいワイシャツ。ボタンが一番上の首元だけ外れていて――おれの視界は、ついにその「誰か」を個人としてはっきり捉えた。
「――――神原」
 ほんの一言。口の中で小さくそいつの名前を呟いた、それだけだった。なのに、音楽室を中心としてつくられた世界は劇的に変わってしまう。ガタンッ! という荒々しい音と共に、あんなに綺麗で静かだった音色が壊れた。ワンテンポ遅れて、ピアノを弾いていたその人が勢いよく立ち上がったのだということに気付く。
「な――なんで、」
 扉を大きく開けると、立ち上がったそいつは自分の声で空気を震わせて後ずさった。
 脱色した短めの髪に百八十を超えるかという長身。教室の後ろの方の席でいつも不機嫌そうな顔をして座っている奴だった。無口で、クラス内での話には交ざらず、行事もスルー。派手な髪色と威圧感のある見た目、そしてその素行から、クラスの誰もがそいつのことを「不良」だと思っていた。
 ――こいつ、こんな声してたのか。
 そんな思考が最初に浮かぶくらいには、遠くの世界にいたクラスメイト。おれとそいつの世界は、きっと今初めて交わっている。
 挙動不審真っ最中のそいつ――神原は、窓まで勝手に追い詰められて逃げ場が無いことに焦ったらしい。何度か口をぱくぱくさせて、ようやく再度声をあげる。
「なんで夏休みなのに学校にいるんだよ!」
 何を言うかと思えばあまりにも理不尽な抗議で驚いてしまった。すごい剣幕に、もしかして殴られるかも……なんて思ったのでいつでも逃げられるようにしながら返答する。
「なんでって、お前もいるじゃん……っていうか、それ、ピアノ」
 弾けるの? と聞こうと思っただけなのに、食い気味に「違う!」と叫ばれた。
「これは違う……」
「な、何が? おれが聴いてたのは幻聴でしたみたいな? それとも学校の七不思議オンステージ? フィーチャリング地縛霊?」
 そもそもお前が弾いてるのおれずっと見てたから。しらばっくれても無駄だから。
 ぎろりと睨まれて普通に怖い。茶化さなきゃよかった。おれは意を決してそいつの世界に入るべく音楽室の扉をくぐる。怖くはあるが、危機感はあまり無い。一瞬でも「殴られるかも」なんて思ってしまった自分が恥ずかしかった。
 この手は、ピアノを弾くための手だ。
 誰かを殴るなんてそんな手を痛めるかもしれないことを、この手の持ち主がするわけない。
「さっきの曲、なんて曲?」
「は……?」
「絶対聞いたことある曲なんだけど、曲名は分かんなくて。お前、その曲好きなの?」
 そいつは一瞬迷うように俯いて、「……好き」と言った。少しだけどきりとする。そんな、苦しそうな声音で「好き」と言うのか、この男は。こんなのは知らない。今日学校に来なかったら、きっと一生知らないままだった。
「『愛の夢』……」
「愛の夢?」
「……曲名。『愛の夢』第三番……」
 第三番。じゃあ一番や二番もあるんだろうか。そう思ったがこの時点では聞かないでおく。「愛」という大それた言葉が同い年のクラスメイトの口からこぼれてきたことに言いようのないむず痒さを感じた。なんて甘いんだろう。とてもいいな、と思う。
「おれもその曲、好き」
「……お前も?」
「うん。クラシックは全然詳しくないんだけどさ。ごめんねにわかで」
 神原は首を横に振って、「別に詳しくなくても、好きになっていい……だろ。文句言われる筋合いねえと思う」と言った。こいつはきっと、誠実に音楽のことが好きなのだろうな、と感じた。
「もう弾かないの?」
「いや……うん」
「邪魔してごめん、おれのせいで中断させちゃった? せっかく綺麗だったからもっと聴きたかった。そんなに綺麗に弾けるの、すごいと思ったよ」
 そいつはどうしてかほんの少し唇を噛んだ。背が高いから、俯きがちでも表情がよく見える。どうしたんだろう、おれは何かいけないことを言ってしまっただろうか。
「……似合わないって馬鹿にされるかと思ってた」
「ん? ピアノ? なんでばかにするの、特技じゃん。ちょー自慢できちゃうじゃん」
 楽器できるってかっこいいよね。おれ、カラオケのタンバリンくらいしかやったことねーよ。後半は冗談めかして笑ってみせると、そいつは微かに笑った。あ、よかった。
「……オレ、昔から周りより一回りデカくて。こんな見た目だからピアノやってるっつっても全然信じてもらえなくて……」
 ぽつりぽつりとそいつが言うには、ピアノをやっていると言っても「えー、ほんと?」とか「意外」とか、そういう悪意の無い、けれど傷付くタイプの言葉がまず真っ先に返ってきて。いざ信じてもらえたら今度は、「似合わねえー。格闘技とかやってるタイプだと思ってた」とか、「男のくせにピアノやってんの?」とか、これまた無理解な言葉ばかり投げつけられて。そういうのが嫌で隠すようになってしまったらしい。たやすくイメージできる。特に小中学生とかめっちゃ言いそう。「男のくせにピアノ?」って。
 あんなに生き生きとピアノを弾くのに、いざピアノから離れると俯いて黙りがちになってしまうそいつのことが心底もったいないと思った。自分の好きなことをばかにされるってつらいよな。……いや、「好きなことをやっている自分」をばかにされる、って言ったほうが正確か。
 ……分かるよ。おれもそうだったから。
「これ、神原にだけ教えちゃうんだけどさ」
「ん……?」
「おれ、本読むのが好き。読書が趣味なの」
「読書?」
「そ。太宰と川端が特に好き。ベタだけど『人間失格』がすげー好きだよ」
 神原はぽかんとしていた。ちょっといじわるしてみたくなって、「似合わないでしょ」と言ってみると慌てたように首を振られる。
 否定してくれたのはもしかして神原が初めてかもしれないな、と思いながら、おれは窓に映りこむ自分の姿を見る。我ながらたくましさのかけらも感じられない細身の体に、肩の辺りまで伸びた髪。アッシュグレージュ。数を数えるのも面倒なピアス。どこからどう見ても校則を守る気が一切無さそうな不真面目の塊。
「志波が何を好きでも、いいと思うぞ。ピアスはちょっと怖いけど……」
「え、ごめん見た目だけならおれは怖くないよ。人当たりいいもん。いっつもにこにこ笑顔を心がけてるもん」
「ピアス大量についてるし髪染めてるから近寄りがたかった」
「どうしよ、鏡とか持ってきた方がいい?」
 こいつに投げかけられたであろう言葉、傷付いたであろうこと、痛いほど想像できる。「似合わない」なんてクソ食らえだ。おれの好きなものをおれ以外が決めるな。おれが何を好きでも、何が得意でも、おれはおれだ。お前はおれじゃない。
 女とっかえひっかえしてそう? うるせえ。真面目な話できなさそう? うるせえ。周りのこと信用してなさそう? うるせえうるせえうるせえ――勝手なことばっか言いやがって。
 もしこいつが今も傷付き続けているなら、そんな必要は無いのだと伝えたい。お前の好きなことは、ただお前がそれを好きだからというだけで価値があるのだということ。似合うとか似合わないとか、そんなくだらない基準に左右されたりはしないのだということ。
「……おれ、お前のピアノ好きだよ。だから、もしお前が嫌じゃなかったら、また聴きたい……です」
 一歩後ずさって、そう言った。そして神原の言葉を待った。今日は、招かれてもいないのにこいつの世界に踏み込んでしまったから。だから、もし許してもらえるなら今度はちゃんと、「入っていいよ」って言われてからこいつの世界に触れたい。
 こいつが必死に隠してきたものを暴いてしまった。謝った方がいい、とすら思うのに、嬉しく思ってしまう気持ちを止められない。
 神原はやっぱり途中まで俯いていた。けれど、顔を上げて一歩、こちらに踏み出してくる。
「おすすめの本……とか、教えてください」
「ふは、ありがと。著作権切れのもの多いから、ネットで読めるよ」
「オレの好きな曲も、著作権切れてるやつ多い」
「一緒じゃん」
「そうだな」
 笑い合う。今日、来てよかった。いつもと違うことしてみてよかった。窓が真っ青な空と眩しい雲を切り取る美しさに目を細めて、おれはそんなことを思う。
 ありがとう、平成最後の夏。
 おれの高校生活、ここから楽しくなる予感がする。

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