羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 今日は冬眞くんがお酒を飲みに連れて行ってくれるらしい。おれがまだお酒を嗜み始めて日が浅いので、色々な種類のお酒を飲んでみて好きな味を見つけていこう……という試みだ。
「冬眞くん、飲みすぎないようにね?」
「わ、分かってるって……アンタさ、オレのことどんだけ酒癖悪いと思ってんの?」
「酒癖が悪いというか、あんまり酔うとあなたは泣き出してしまうから」
 冬眞くんはちょっと唇を尖らせて、「別に、今はそんな泣きたいようなこと無いし……」と拗ねたように言う。うーん、あざとい。二人きりでいるときの冬眞くんはお仕事をしているときよりもちょっと幼いのだ。というより、お仕事中は気を張って頑張っているということなのだろう。
 今は仕事帰り。どうやら入社時の一件でおれと冬眞くんがそれなりに気安い仲だというのは周知の事実になったようで、こうして連れ立って帰ることがあっても特に何も言われたりはしない。最初が肝心とはよく言ったものだ。まあ、おれの家のお陰も少しはあるだろう……というのは、癪だがきちんと分かっている。普通に入社した新入社員ならまずご一緒できないような立場の上司と飲みに行ったりもできるのだし。
 ……自分で言うのもなんだが、コネ入社ではあってもえこひいきされたとは思っていない。入社試験では筆記面接共に十二分な結果を出した自信はある。強いて言うなら、営業職ではなくてデザイナー職に回してもらえたのが唯一のひいきだろうか。営業の方が向いているのは自分でも分かっているのだ。向いているというか、そちらの方が大きな成果を出せると思う。
 それでも、おれがこうして我儘を言ってデザインの道を選んでいられるのは冬眞くんがいるからだ。おれの描いたものを好きと言ってくれる人がいるから。それがたとえ自分の会社に戻るまでの短い間だったとしても、デザインを仕事にしていたこの期間のことは忘れないだろう。
 心がじわりと温かくなって、思わず冬眞くんに触れたくなってしまう。でも我慢だ。そういうことは、絶対に人目に付かないところで。
「ところで冬眞くん、今日はどこに向かっているのかな」
「んー? この先のちょっと道外れたとこに日本酒の美味い店があんの。前に同僚と来たんだけど、アンタが好きそうだなって感じの内装だったから」
 皿の模様が綺麗だったよ、とはにかみながら教えてくれる冬眞くんは、やっぱり気遣い屋さんなのだろうなと思う。皿の模様って。それが有用な情報として使えるの、おれが相手のときくらいじゃないか?
 この道曲がってすぐだよ、と冬眞くんが言って、二人で連れ立って薬局のある角を曲がる。思いの外近いところにぼんやりと灯りが下がっていて、あああの店か――と思ったところで、冬眞くんが急に歩みを止める。
 どうしたんだ、と振り返るよりも早く、「おっ。矢野、偶然だな」と冬眞くんを呼ぶ声がした。
 そこにいたのは冬眞くんと同じようにスーツを着た男性で――というか、おれも見覚えがある。冬眞くんと会社で同期の人だ。確か営業職だっただろうか? 冬眞くんは元々営業職で、異動して法務部に所属しているので元同じ部署のよしみというやつが多いのだ。
「うわっ安来……ほんと偶然じゃん。そっち今比較的落ち着いてるんだっけ?」
「割とな。今日で一区切りついたし、久々に外で飲むのもいいかと思ったんだよ。っつーか『うわっ』てなんだ」
「ごめんごめん、あまりにも偶然すぎてビビッただけだから」
 その男性――安来さんはおれを目に留めると、「やっぱり仲がいいんだな」と言って笑った。含みの無い、快活そうな笑顔だと思った。当たり障りないように挨拶をした後、その人ははっと気付いたように後ろを振り向く。
「潤! 潤、こっち」
 手招きされて店の看板の前辺りからふらっと歩いてきたのは、おれよりもいくらか背の低い、線の細い男性だった。絵になりそうな綺麗な造作をしている。その男性は「いいの?」「いいのいいの。ほら、前言っただろ。法学部出身の」「あ、そっか。偶然だったけど、これで直接お礼言えるね」と安来さんと謎の会話をした後、こちらに向かってぺこりと頭を下げた。
「こんばんは。潤です」
 下の名前だけの自己紹介とはまた斬新な、と思っていると、冬眞くんはおれの知らない事前情報から事情を導き出したようで。「こいついるのに、いいの?」とおれのことを示す。うん? 何やら込み入った話だろうか。
「席を外しましょうか」
「いや、いいって。潤も大丈夫だよな?」
「うん。平気だよ」
「っつーか、立ち話もなんだし店入んねえ? 二人もここで飲む気でいたんだろ?」
 冬眞くんは、一瞬だけおれを気遣うように見た。……ふむ、『二人っきりのはずだったのにごめん』みたいな感情が見える気がする。あと、『二人っきりのはずだったのにちょっと残念だな』というのも。まあ、家に帰れば自動的に二人きりだ。ここで声高に残念だと言うつもりは無い。それに、立場上同じ職場の先輩のお誘いはできる限り受けておきたい。安来さんが底抜けにお人好しそうなのを感じたのもあり、交流を持っておくのもいいだろうと思った。いかにも困ったときに助けてくれそうな人だ。
「お二人のお邪魔でなければ、ぜひ」
「おっし決まりな。行こうぜ」
 打算込みの返事をしたおれは、さてどうやって立ち回るべきかと思考を巡らせる。
 そこの――ジュンさん、といっただろうか。その方が、ほんの少しだけ安来さんを見て目を細めたのが分かったからだ。当たり前だけど、二人っきりで飲む予定だったんだろうなあ……。
 なんとなく彼に冬眞くんと似たものを感じつつ、おれは店の暖簾をくぐったのだった。

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