羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 もし疲れてなければ仕事帰りに店に寄ってほしい、と言われて、珍しいお誘いにうきうきしながら高槻の店に行った。既に閉店している時間だけど、電話を入れると『裏のエレベーター側の扉から来て。鍵開けてあるから』と言われる。言われた通りに裏口側から入って扉を開けると、ふわりと甘い匂いがした。
「おつかれー。来たよー」
 カウンターの傍まで歩いていくと、厨房から高槻が出てきた。「んー……おつかれ……」そう言うが早いかぎゅっと抱きしめられて、これは本当に珍しいぞ? と少し愉快な気分になった。こいつは普段、こんな風に甘えてくることはあまり無いのだ。
「バレンタイン、忙しかった?」
「めちゃくちゃ忙しかった……やっと終わった……」
「ふは、マジでお疲れ。クリスマスの時期もこんな感じじゃなかったっけ?」
「クリスマスよりはバレンタインの方がマシ。あのときは睡眠時間削ってたから」
「うーん、なんでも一人でできちゃうってのも考え物だよね。バイト増やせば?」
 なるべく一人でできる範囲で続けたい、と言う高槻は、別にこの店で大儲けしようなんてことはハナから思っていないようだ。毎日食べるのに困らなくて、やりくりを考えなくても好きに食材を買えて、店に来てくれる知人友人にたまに食事をご馳走できるくらいでいい……ん、だとか。こいつ、物欲無いもんなー。でもこういう欲の無い人間にこそ不思議とお金って集まるんだよね。
 今日も大繁盛だったようで何よりだ。この近所ではたしてこいつの手作りのチョコレートを食べている男性諸君がどれだけいるのか想像するとちょっと面白い。
「ね、オレなんで呼ばれたの? 癒し要員?」
「お前もしかして自分のこと癒し系って勘違いしてんのか……?」
「ひどくない!? 恋人の要望に応えて仕事帰りに会いに行くってめちゃくちゃ健気でしょ、癒されるでしょ?」
「んー、元気出る。ありがとう」
「えへへ」
 照れますね。オレとしてはその反応だけでも来た甲斐あったってものですよ。
 チョコレートの甘い匂いを漂わせてる恋人、漫画に出てきそうなくらい完璧じゃない? 疲れてるのも色っぽいよ。カッコイイと思う。かなり体力あるこいつがここまでぐったりしてるってことは相当大変だったんだろうな。
「なあ、飯食ってくだろ」
「え、でも疲れてるんじゃないの?」
「実はもう作ってある」
「お前すごいな……」
 一緒に食べたかったから、と可愛いことを言ってくるそいつ。よしよし、じゃあ頂いていこうかな。店はすっかり片付いてたから、きっと高槻の家の方で食べることになるだろう。
 今日の夕飯なあに? というオレの質問に、高槻は笑って「今日はトマトシチュー」と答える。豚バラ肉と豆がたっぷり入った、ほんの少しだけ辛い味付けのシチューだ。美味しいんだよねー。
 店の戸締りをして居住スペースまで移動しようかという直前に、高槻は厨房に入ったかと思えばすぐ出てきてオレの目の前に立った。
「ん。口開けて」
「あーん」
 素直に開けるとチョコレートを一粒放り込まれた。言われなくても分かる。勿論手作りだ。パキッ、と外側のチョココーティングの部分を噛むと、中は柔らかい。オーソドックスながらとても美味しいトリュフチョコレート。
「んむむ、美味しいー。ありがとう」
 咀嚼し終えて真っ先に伝えたオレに高槻はふわりと表情を和らげた。嬉しそうにしちゃってまあ。
「そういやオレ何も用意してなくてごめんね」
「気にすんなよ。自分で作ってて散々味見したから暫くチョコは見なくていい……」
「胸やけしそう……あ、でもホワイトデーに何かお返しするね」
 言いつつ、そいつにキス。
「ハッピーバレンタイン! ささやかですが、今日のところはこれで」
 チョコレート味のキスだよ。実はオレがキスしたかっただけなのは内緒ね。
 軽く舌を絡めてきたそいつは「やっぱ美味いわ」と頷いている。どうやら今年のチョコレートもかなり満足できる味だったようだ。
「……チョコレート、まだある?」
「ん? 珍しいな、まだ食う? あとちょっと残ってるから全部持ってっていいぜ。夕飯食い終わったら包む」
 じゃあ貰っちゃおうかな、なんて言いながら高槻の後について歩く。
 ……実は、チョコレート食べた分だけそれを口実に高槻とキスできるかな、って思っただけなんだけど。流石に恥ずかしいこと考えてる自覚はあるから、真相は黙っておこう。

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