羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「生きている間に一度でいいからシャンパンタワーを拝んでみたいなあ……」
 高槻は、「何言ってんだこいつ……」みたいな表情でおれのことを見てきた。照明を絞った薄暗い店内、隣のテーブルからは十分に間隔が空いており、さざめくような笑い声が控えめに流れる。ここは、お酒を飲むための店――いわゆるバーである。
「高槻は見たことがあるのか?」
「いや、見る見ない以前に見たいかそれ……?」
「だって一度も見たことがないんだよ。シャンパンタワーは見てみたいしシャンパンコールも聞いてみたい。男だとそういうお店には入れないからなあ……」
「別にそんな面白いもんでもねえけど」
 おや、まるで見たことも聞いたこともあるかのような口ぶりだ。高槻は失言であることにすぐ気付いたのかばつの悪そうな顔をして、けれど今日はそれだけでは終わらなかった。
「……俺、父親がホストしてたからそういうのはちょっとだけ分かる、けど、お前には雰囲気合わないと思う……」
 必死でそんなことを訴えかけてくる高槻。あの、おれに雰囲気が合わないという話をするのと引き換えにしてもいい情報なのかそれ……? 高槻のご家庭の込み入った事情に含まれる部分だろうに。いや、まあ、薄々分かってはいたのだけれど。
「正直お前が今ここにいるのもぎりぎりだと思ってるからな俺は」
「う……悪かったとは思っているんだよ。わがままを言ってしまったから……」
 実は、なぜおれが酒も飲めないくせにバーにいるのかというと直球で「お酒は飲めないけどそういうお店に行ってみたい」と高槻に言ったからなのであった。高槻はやっぱり「えー……」みたいな表情をして、連れてきてくれたのがここだ。先ほどから、店のカウンター横でさりげないピアノの生演奏が行われている。それにしても高槻はこういう場所が似合うなあ。ピアスだからだろうか。もうピアスホールが残っているだけで実際につけてはいないのに、それでも不思議と馴染む。
「おれ、てっきりおまえのお父上のお店に連れていってもらえるのかと思っていた」
「……えっ」
「ほら、おまえのお店で時々お会いすることがあるだろう。『機会があったらお友達と遊びにおいで』って言ってくださったんだよ」
 もちろん、元々ホストクラブでホストとして働いていたというようなことは今初めて聞いた。けれど、お酒を出すお店で経営の手伝いのようなことをしている、という話は世間話のような気軽さで既に話題に上っていたのだ。
 あまり年齢差を感じさせないひとだった。いつお会いしても柔らかく笑っていて、驚くほど若々しいひとだった。
 高槻は口をつぐむかと思いきや、「あー……あいつ、お前みたいなの好きそうだからな」と何事か納得したらしい。うん? どういうことだ。
「おれみたいな、というのは」
「なんかこう、真面目とはまたちょっと違うけど……育ちがよさそうでちゃんとしてるっつーか、そういうのが好きなんだよ、あいつ」
「そ、そうなのか……」
「友達と来いって言われたんだろ。お前みたいなのが一人で来る場所じゃねえぞって意味だと思う」
「ふふ、じゃあ行くときは八代でも誘おうかなあ」
 高槻は、「そのときは個室とってやるよ……」と言った。今日一番嫌そうな声だった。嫌なら嫌って言っていいのになあ。はたしておれがそういう場所に行くのが嫌なのか、自分の知らないところで父親と仲良くされるのが嫌なのか、判断が難しいところである。おれとしてはもちろん高槻と一緒に行ってみたくもあるのだけれど嫌がられそうだし、八代は高槻のお父さんと仲がよさそうなので、さっきの発言は七割くらい本気だ。
 本当は分かっているのだ。高槻がここに連れてきてくれたのは、おれがアルコールの匂いすらだめだから。座席同士が十分に離れていて、カクテルを作るカウンター席からも遠い位置で、そういう場所を選ぶことでおれの体を気遣ってくれたのだろう。
 ……流石に、テーブルの上にお酒の入ったグラスがあるだけなら倒れたりはしないよ?
 高校のときのあれは、絶対に換気ができていなかったのが原因だと思う。でもあのとき倒れたおれを運んでくれたのは高槻だったから、ひょっとするとまだそのことを覚えていてくれたのかもしれない。
「……っつーかお前、俺と一緒でよかったのか」
「うん? ああ、奥とではなくて、という意味か? たまには内緒でこういうところに来たいなと思うこともあるんだよ」
 奥は「飲む場所では飲みたい」派だから、おれに合わせて飲む量を控えさせてしまうのは申し訳ないし。高槻は、お酒に強いし好きではあるのだろうが、その点で言うと積極的に飲みに出かけるタイプではないのだ。だからお願いしてみた次第である。
「おまえはどちらかというと、お酒が好きというよりもそういう時間が好きという感じだろう?」
「そういう……?」
「誰かとゆっくり過ごす時間」
 たとえば、ほら、八代と一緒に家で飲んだりだとか。
 素直に頷いてくれた高槻は、しかしふいっと視線を逸らしてしまった。慣れた手つきでグラスを持ち上げて縁に口をつける。綺麗な色のお酒だった。
 高槻は飲酒量も相手によって変えられるタイプのようで、八代と飲んでいるときはかなりハイペースだしおれと一緒だと量も度数も控えめだ。そういうところも、こいつの優しいところだなあと思う。
「実は、ずうっと思っていたんだよ、羨ましいなあって……なんでみんなお酒飲んでいるときあんなに楽しそうにしているんだろう、いいなあ」
「ふうん。お前でもそんな風に思ったりするんだな」
「大人なのにお酒が飲めないってちょっと損している気分にならないか? おれの周り、みんな飲める人たちばかりだから余計にそう思うのかもしれない」
「純粋な味だけならココアの方が美味いと思う」
「ふふ、八代とよく二人で飲み会しているくせに」
「あれはあいつがめちゃくちゃ飲むからだよ……一体どこに入ってるんだよ、あの酒の量……」
 ちゃんと見張ってないと飯を食わなくなる……とぶつくさ言っている高槻は、まあ、世話焼きなのだと思う。世話されたがりの八代と、相性ぴったりなのだろう。手のかかる子ほどかわいいというやつ? 同級生に向かってさすがにそれは無いか。でも、こうやって八代の世話を何かと焼いている高槻は確かに楽しそうというか、いきいきしているのでやっぱり相性ぴったりなのだ。
 今だって、ほら、嬉しそうだし。全然隠せていないくらいには。
「おまえは昔より素直になったね」
「……な、なんだよ突然」
「独り言だよ。八代はよほど頑張ったのだろうなあ」
 あんまりいじめるのはよくないのでこの辺りにしておこう。何より、いくらカクテルとはいえノンアルコールの飲み物だけであまり長居するのは気がひけるし。ピアノの生演奏、とてもすてきだった。こんなにいいところに連れてきてもらえるなんて、おれもお返しにどこか紹介させてもらおう。
 ……こいつ、ちょっと価格帯の高いお店でも躊躇なく行ってくれるから、実はかなり嬉しかったりするのだ。

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